ボクがもしソメイヨシノだったら…

kuriyamakouji2006-04-07

 『風の旅人 19号』武田徹の記事『生命システムと、人間の葛藤』を読んでいたら、急にソメイヨシノが愛しくなりました。そんで、八幡の背割りに出かけました。今度の週末は満開でしょうね、でも、1.2kmの櫻のプロムナードは少し風が強く寒かったけれど、歩きを楽しみました。
臓器移植の困難な問題解決の奥の手に人クローンやES細胞作りがありますが、「自己決定権テーゼ」が通用しない分野ですね。それで、縛りとして「生命の尊厳」を持ち出すが、その単に「生命の尊厳を脅かすからダメだ」という弱さに疑念を呈す。そのことについて、ソメイヨシノが考えるヒントを与えてくれると言うのです。

 接ぎ木、挿し木はそんな植物の自然な増殖の仕方に倣った技術だ。植木職人はソメイヨシノの美しさに魅了されて増やそうと思ったのだろうが、遺伝子の側からみれば人間まで動員して自己保存を果たしているともそれは解釈できる。自己保存が生命の原理だとすれば接ぎ木、挿し木によるクローン株の大量生産はそれに一向に矛盾していないのだ。

 そんな刷り込みがあったもんだから、何となく背割りのソメイヨシノに接近して接ぎ木、挿し木を矯めつ眇めつ嘗めるように見てしまいました。画像をアップしましたが、結構、僕だけでなくこんな写真を撮っている人もいましたね。

 同じ論理が人クローン胚作りやES細胞作りにも適用可能だろう。狂ったようにクローン技術開発に明け暮れるバイオテクノロジストたちは、植木職人たちと同じく遺伝子に「遠隔操作」されているとも考えられる。
 そしてもうひとつ注意すべきなのはクローン技術であっても新しい生命は作っていないという事実だ。ソメイヨシノの接ぎ木はまさに端的な例、それは生命を受け継いでいるだけだ。人類は突出した自然加工力を持ったが、生命を新しく作るまでには至っていない。どこかにあった生命が、時には偶然の力を借り、時には人間の力をも動員して、交配し、分裂、増殖し、変異しつつ作られたのが現在の生命システムなのだ。「たかが」クローン技術に生命の尊厳への脅威を見るのは、実はそれ自体が技術の過大評価であり、その「奢り」は研究者や医者の暴走とも水面下で繋がっているように思う。

 武田さんは移植医療を推進、反対するのも「自己決定テーゼ」、クローンやES細胞に反対するのには「生命の尊厳への侵害」の一本槍ではあまりにも論理が貧弱だと言うのです。新しい論理の模索は管啓次郎『最後の木の島』を読んでも、そんなシステム全体、大きな土俵で想像力を働かせて何らかの手を打たないと「最後の島」が現実味を帯びてくる。まあ、それによって地球が新たにエネルギーを蓄えて新しい生命を生み出すかもしれない。地球は人間という種だけのものでもないのですから…。
 ソメイヨシノをじっと見ていると、「ああ、ソメイヨシノになりたい」と思いました。