最後の拠り所は教養の力

オンライン書店ビーケーワン:途方に暮れて、人生論
 ネットの「Web草思」、隔月刊雑誌『風の旅人』で、もう読んでいたエッセイですが、こうやって『途方に暮れて、人生論』として通して読んで見ると、保坂さんのいいたいことは、とてもガッテンが行く。帯文にある『「希望」なんて、なくたっていいーー。』は一回り年上の僕に対しては何の意味もなさない言葉ですが、若者たちにこの人は「俗流若者論」を喋り散らして悦に入るトンデもオヤジ連中と違うと思わしめるクールな言葉かもしれない。 

 今いうのはつくづくおかしな時代だ。テレビをつけるとバラエティ番組ばかりで、わいわい騒ぐのがコミュニケーションだとでも言いたげに、みんなでひたすら楽しそうに振る舞っている。書店に行けば新書を中心としたベストセラーがドーンと並べられていて、本の配置それ自体が「時間をかけてゆっくり考えていたりしたら時代から取り残されるぞ」という信号になっている。
 しかしこれらの現象は、時代が明るく楽しいことを語っているわけではなく、むしろ閉塞していることの証明でしかないだろう。社会のそういう表面的なことにつきあっていたらきっと自分自身の人生まで閉塞してしまう。生きるということは本当のところ、多数派のままではいられないということを痛感することで、要領のいい人から「ぐず」と言われるような遅さで考えつづけることでしか自分としての何かは実現させられない。拠り所となるのは、明るさや速さや確かさではなくて、戸惑い途方に暮れている状態から逃げないことなのだ。
 だから、この本には生きるために便利な結論はひとつも書かれていない。しかし安易に結論だけを求める気持ちがつまずきの因になるということは繰り返し書いている。生きることは考えることであり、考えることには結論なんかなくて、プロセスしかない。
 とにかく、今はおかしな時代なんだから生きにくいと感じない方がおかしい。生きにくいと感じている人の方が本当は人間として幸福なはずで、その人たちがへこんでしまわないように、私は自分に似たその人たちのために書いた。ー「あとがきにかえて」よりー

 保坂和志の『途方に暮れて、人生論』は巷に溢れる人生論とはだいぶ趣が違います。本屋を覗くと自己啓発書コーナーが目立ちますし、僕らの年齢層を対象にした「脳の強化みたいなコーナー」がこれ見よがしに陳列されている。でも、中堅書店では人文書の棚が目に入らなくなりました。そんな教養書コーナーの危機に危惧して自己啓発書と教養書の境界線を溶解する戦略で上梓されたと思われる稲葉振一郎『経済学という教養』なんていう本もありますが、上の保坂和志さんの引用で少しフォローするなら、新書のライナップが何とか教養を下支えしている面もあります。しかし、何で教養が必要なんだと思われるかもしれませんが、いわばそのことを本書は一冊の本で語っていると思います。
 でもそんな教養なんてまどろっこしい、と言っている人に自己啓発的な文脈で言ってみると、カーネギーさんの本でしたか、人生の成功の秘密の三要素は、
 ★想像力★勇気★少しばかりのおカネで、例えば上の文脈で言う多数派のみなさんもナットクしてくれると思います。
 でも、想像力の産みの親が教養だと言うと引いちゃうところがあるのでしょう。でも、結局、国家という大風呂敷を広げても国を滅ぼすのは想像力の劣化でしょう。教養はおカネによって評価できない力を持っている。漱石の『吾が輩は猫である』の迷亭さんも言うように、そのおカネを乗り越える力を持っているものは教養しか思い浮かばないではないですか、ただ、最近、ウラゲツさんも書いているように

昨年11月に水声社から月刊誌「水声通信」が創刊され、今年2月には講談社から不定期刊思想誌「RATIO」が創刊、3月にはGLOCOM の機関誌「智場」がリニューアルされ、5月には「VOL」が創刊されて、人文業界ではさらに他の新創刊の噂も出ています。2006年は新思想誌元年となるのかもしれません。

 このような新しい流れは人文業界がある種「ロングテール」に徹しきるという、よく考えれば当たり前の路線に邁進する覚悟をもったということでしょう。数千部の世界かもしれないが、それが、教養を想像力を支える。