再帰性とは

 梅田のジュンク堂本店3Fの女性問題の棚にバックラッシュ!』がメンチンになっていました。bk1にポイントの残があるので、それで買おうと思っていましたので、ちょうど窓際の椅子が空いていたし、座り読みを始めました。本文の最初は宮台真司さんの『ねじれた社会の現状と目指すべき第三の道』で聞き手は荻上チキさんです。面白くもう少し座り読みしたかったのですが、のどが乾いてお茶したくなり、予定変更で立ち上がり本日購入。茶店で続きを読みました。只今読書中…。バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

宮台 社会学のオーソドックスな枠組みからいうと、ジェンダーフリーは、ジェンダーレスではありません。ジェンダーレスは「社会的性別の消却」だけど、ジェンダーフリー概念によって推奨されるべきは「社会的性別に関わる再帰性の自覚」であって、「ジェンダーフリーだから、ああしろ、こうしろ」という直接的メッセージは本来、出てきません。まあ、再帰性という概念を知らない人びとがーーとりわけ後述するような不安な層がーー立場を問わず騒いでいるだけの話ですね。(後略)−10頁ー

『再帰性とは』で検索すると沢山のデータがありました。僕自身のブログにもヒットしたのですが、生半可な知識で再帰性を使っている。僕自身、ちゃんとわかっていない!(汗)、そんな風に思いました。(http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050712/p1
 それで、僕自身の学習のために関連データをアップします。ウィキペディア百科事典もホンの一言ですね、『「絵を描く人の絵」を描く人の絵』を描く人の絵を…」のように同じ構造(例では「絵を描く人の」)を繰り返しあてはめることができる性質をいう。 』となっているのですが、入れ子構造と無限後退と、どう違うのか、イメージとして「ブーメラン」を思い浮かべてペンディングしているのです。*1だいたいの理解でその都度著者の文脈の中で一応の読解をしているわけ。上に貼り付けた僕のエントリーでは『終りなき再帰性』と『終わりある再帰性』と主知主義主意主義に重ねて宮台さんのテキストを読んでいるんですが、本書の注の説明をハリツケ。

再帰性とは、選択前提(であるがゆえに通常は選択対象にならないもの)が選択対象に織り込まれた状態。近代社会では「手つかずの自然」は再帰的である。文化を前提づける自然というより、あえて手をつけない文化的選択の結果を意味するからだ。学習の仕方を学習する場合も、選択前提だったものを選択対象とするので、再帰的である。似た概念として反省(性)があるが、こちらは、システムと環境との関係がシステム内部で再現された状態(全体が内部的に表象された状態)を意味する。「世界の中に私がいる」と見るのは誰か(私なのか)という問いは、現象学的反省と呼ばれる。ジェンダーフリー再帰的だとは、男女に同じ振る舞いを期待するというより、どんな期待ももはや自明ではないという意識とともに期待ががなされるからだ。そこでは選択への期待の前提もまた選択されている。(83頁)

 せっかくの注の説明なのですが、僕の頭が消化できない。自己言及性とも違うんですよね、こちらの社会用語集で再帰性を綺麗に定義づけていますが、ギデンズの『近代とはいかなる時代か?』(而立書房)を読むしかないか、生半可に言葉を使っているので、その反省と学習に新たに言葉のカテゴリーを追加します。
オンライン書店ビーケーワン:近代とはいかなる時代か?

*1:ブーメランのスパイラルでしょうか、戻って来たブーメランは最初のブーメランとちょっぴり違う。だからそのブーメランで二投目をするときは修正して投げなくてはいけない、そうやってスパイラルされたブーメランは再帰性という外観をまとっているがその前の○投目が前提となった無垢でないブーメランなのだ。という僕のイメージ。