被爆のマリアたち

陰日向に咲く被爆のマリア
 地元の図書館からtelがあり、本を借りる。劇団ひとりの『陰日向に咲く』と田口ランディの『被爆のマリア』である。
 顔馴染みのスタッフ女史が『陰日向〜』を読んだと言うから、「泣けましたか?」と尋ねるとにやりと笑って、「Kさん、泣けたら教えてね」と返されてしまった。図書館の方が冷房が効いて椅子席は寒いぐらいなのですが、僕より年輩の方達が雁首をそろえて主に雑誌(ここでも正論が人気ですね、昔は週間図書新聞、週間読書人も置いていたのにカットされている)、新聞を読んでいる、時々、雑談を始めるので閉口です。街の小さな図書館で注意するのは子どもならともかく、年寄りはしゃあないという思いがあるから、ここの閲覧席で読むことはめったにない、借りて帰るのです。
 そうやってまずひとりの『陰日向に咲く』を読む。上手い、上手すぎる、考え抜かれた仕掛けとオチ、連作短篇全体に流れる大きなフレームの中でそれぞれのエピソード(小説)が作品として明確に刻まれている。もし欠点といえばそんな劇団ひとりの「技業」が見えすぎるということかもしれない。交響曲でないけれど、完成度の高い小品集である。図書館のスタッフのお姉さんの期待と違って泣きはしなかったが、抒情を揺さぶられて蒸し暑い渦中でありながら、一陣の涼風がさっとよぎった読後感です。
 そうやって気分の良いまま、田口ランディの『被爆のマリア』の「永遠の火」から読み始めたら、途中で何となく錯覚していることに気がついた。恐らくそれは『陰日向に咲く』のドアを閉めて『被爆のマリア』のドアを開けたのに、まだ僕の中に『陰日向〜』の部屋の残像があって「永遠の火」のキャッシーとイチローが田口さんに怒られるかも知れないが、劇団ひとりの舞台に登場した『陰日向〜』の哀しくもおかしな一生懸命に生きる人びととつながって同じステージで読んでいるというか、ヘンな錯覚があって、「あ!そうだ、僕は今、田口さんの本を読んでいるんだ」とふと吾に帰り軌道修正しました。先日、昼間のNHKの生番組で「劇団ひとり」が出演して色々とアナウンサーのインタビューを受けていたが、とても面白いキャラクターで、彼の話に聞き入ってしまいました。この本で益々劇団ひとりのことが大好きになりましたね。
 田口ランディのは、今に足を地に着けた『60年後の原爆小説』であり、メッセージ性が強い小説かと思ったのに、そんな大文字小説ではなく、「被爆のマリア」を日常の皮膜をめくれば、すぐそこに見出す今そのものの世界の生き難さ、一人一人の実存を通して発見してゆく。ゴールデンなるこであり、ジュピターであり、ヨコハマメリーであり、「被爆のマリア」の佐藤さん、 この『被爆のマリア』は『陰日向に咲く』を読んだ人にも読んで欲しいなぁと思いました。『陰日向に咲く』で泣きはしなかったけれど、『被爆のマリア』では泣く一歩手前までいってしまった。泣くにしては具体的な「被爆のマリア像」が僕には日常的に見えてしまう。そのリアリティの迫り来るものがこの小説にはあります。僕が今まで読んだ田口ランディの中で一番好きになれそうな小説ですね、
 それにしても偶然といい、『陰日向に咲く』と『被爆のマリア』を続けて読んだのは大正解でしたね。勿論、最後に交響曲を聴くということで、締めは『被爆のマリア』、それにしても今日も暑い!昨夜の風呂がまだ暖かで、又、入ってしまった。