二つの薔薇がゆれる

 leleleさんが薔薇族の伊藤文学にインタビューしている。そう言えば二年程前にブログで伊藤文学/バ〜ラが、散った、真っ赤なバラ達が というエントリーをしていたんだ、ここに書いていたように僕がいた本屋では結構「薔薇族」の定期購読者がいました。それがほとんど女子高校生で、男子高校生が買ってくれた記憶がないですね、そこが不思議なことで、インタビュー記事で熊本の男子高校生が自殺した事件について書いていますが、さもありなんという思いがあります。
 しかし、伊藤さんの見立てで寺山修司は「ゲイ」らしいが、ホント?かという疑念があります。でも例えそうだからと言っても驚かないが、ヘテロであって同時に同性愛者もいますし、性ほど多様性に満ちたものはない。わけわかんないものです。僕はそう理解していますから、ノーマルとアブノーマルをそんなにはっきりとカテゴリーライズしているわけではない。ただ、僕なりの仕分けルールは習慣性(繰り返し)です。そうすると、大人の女性を繰り返しメイクラブすることは習慣性があるからアブノーマルのかという言い方になってしましますが、それは結婚と言う社会制度に深く関わる問題かもしれない。それは性の問題ではなく、社会制度の問題でしょう。吉行淳之介でしたか、好奇心で一回こっきりで、「ゲイ体験」、「SM体験」しても、だからと言ってアブノーマルなヤツと指呼出来ないと、どこかで書いたのを読んだ記憶がありますが、僕もそうだと理解しています。偏執狂的なものに支えられているわけですよ、その限りで一穴主義の大恋愛物語はアブノーマルとも言える。そんなことをよく若い頃喋っていましたね、
 市場に流布しているアブノーマルなものは単に「体位の問題」で「アブノーマルな商品」に過ぎない、そのような市場性、社会性から逸脱した外部に起立するものが、アブノーマルなもので、そのもっとも極端な顕れが「愛」であり、「恋」であり、そのような視点から見ればヘテロであれ、ゲイであれ、すべては同じ地平で、畏れるのは「他者を愛する」ことそのことだけだと思っていました。
 社会の底が抜けるわけですよ、男と女の物語でなくとも、男と男、女と女…、家族の問題でもいい、兄と弟、姉と妹、母と子、父と子、多分そのような「他者を愛する」地点はノーマル/アブノーマルなんていう位相をはるかに越えて直接、世界へ宇宙へつながろうとするのだと思います。今日観た映画『ゆれる』は兄と弟のそんな物語でした。
 この映画についてゆっくりといつか書きたいです。昼間なのに満員でした。でも、九割がたは女性でした。なぜ、かような映画は男性客が少ないのでしょうか、とてもシリアスで骨太でありながら繊細という心理劇で堪能しました。男性軍はこのような映画をみる心の余裕がないのであろうかと、寂しい気持ちになりましたが、意外と女性の方が社会の底が抜けようがどうでもいいと、『愛』に貪欲なんでしょうか、それにしても盛況なのに男性客が一桁というのは、そのような数字で判断すれば僕は少数派、アブノーマル?って思ってしまう。男性客はアベックか夫婦もので、僕のような一人オヤジがかような映画を観るのをあまり目にしない、なんでか?って、寂しくなります。