思考停止を許さない日々の暮らし

 固有名詞を出してもいいのですが、この介護センターの親病院にオヤジが入院して平成7年なくなっているので、段々と13回忌も近づいてくるし、来週の火曜日には「お盆のおまいり」にお坊さんがお経をあげにいらっしゃる。それで、縁起が悪いので、名前は控えさせてもらって、URLのリンクだけ張ります。地元では民間総合病院として幅広い医療活動しながら、介護、保育など、手を広げすぎたのでしょう。そのような分野でスケールメリットを求め出したらかなわない、これからかような事例が増えてゆくのでしょうか?
http://news.goo.ne.jp/news/sankei/shakai/20060802/e20060802005.html
http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/2148.html
http://www.pref.osaka.jp/fumin/html/08012.html
 まっちゃんさん紹介の門真市のエントリーも他人事ではない、
http://www.kadoma-shisyokurou.org/rensai/kokuho1i060707-asahi.html
http://www.kadoma-shisyokurou.org/rensai/kokuho32i060708-asahi.html
 前回のエントリーで『風の旅人 21』の茂木さんのエッセイに触れましたが、そこから引用してみます。

 確かに、科学主義の世界観にどのようにつながるかを明らかにしていない点において、現代の多くの思想家は不徹底であるとしか言いようがない。その一方で、科学主義的世界観が万全かと言えば、もちろんそうではない。むしろ、単純に科学主義を奉ずるものは、ある一定以上には思想的に深まらないという印象が強い。とりわけ、人ひとりの生き方にかかわる領域でそうである。人文主義的な思想だけでも、科学主義でも、どちらでもそれだけでは私たちが住むこの不可解な「世界」の中でもがく私たちの生全体を引き受けることはできない。
 それならば一体どうしたら良いのか。科学でも思想でもない、何らかの別の道を探るしかないのか?吉本さんとの対話の中で浮かび上がってきた問題点は、要約すればそのようなことであったように思う。(p145)

 そのバトンはかぜたびさんの『理性と感性の融合』に引き継がれている。アクエリアンさんとかぜたびさんとの長文のやりとりは読み応えがありました。