婆(爺)クラッシュ!?

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?感じない男 (ちくま新書)無痛文明論
 前日のエントリー、コメントに続くのですが、マイミクさん、てるてるさん赤木智弘さんに対する評価の違いは多分、理屈ではなくそれぞれの履歴による「感情」が装填された記憶の生自体によって、「弱さ」に対する反発と共振が鬩ぎ合うのでしょう。
 女性であり、年齢も多分、そんなに違いない二人の間でも若い男性の「弱者言説」に嫌悪、好感と違った情が露出している。そのことについて昨晩考えていたら、生命学の森岡正博さんの『感じない男』という学者の手になる「私小説」より「<私>小説」、でも小説ではなく、学者の赤裸々な『ヰセクスアリス』である性告白ロリータ文献『感じない男』を思い出しました。
 発刊前後、生命学のHPでも森岡さん周辺の読者共同体がある種のお祭り騒ぎをして盛り上げ、セックスにまつわる書き下ろし、そしてこの本のあとがきに著者自身が大学の授業で『感じない男』に関する質問は一切受けつけないと、告知していましたが、本書の通底に流れるもてなかった男(性的弱者)の告白は、それを言わなくては高見から発信する「ロリータ」論になってしまうという森岡さんらしい誠実さだったと思いますが、あるところではだからこそ誠実さが伝わる稚拙な文体で、そのことについて僕は過去ブログでも苛立ちを隠せなかった。まあ、bk1のレビューから一部引用してみます。

スキャンダラスな教授の性告白というちょっぴり刺激的な惹起文に惹かれてこの新書を手に取った人がいるかも知れない。「生命学」、「無痛文明論」のことはまるきっり関心のない人達をもターゲットにしたのではないかという戦略は著者の『感じない男』という掲示板をHP上にアップした事情でも窺い知れる。それが良かったのか悪かったのか、つっかえ、つっかえ読み終わった感想は、長年に渡って鋤を入れて様々な文体が乱入しながらも、これからも添削されていくであろう未完の大作『無痛文明論』の著者だからこそ、何かあるだろうと、期待して読んだのですが残念なことに僕にとって新しい発見はなかったという想いです。それは僕の読解の能力の足りなさを露呈していることになるかも知れないが、大部の『無痛文明論』は刺激的に読めたし、新しい発見も多々あった。
著者の自己を相対化し、被験者とし、性告白の闇に果敢に挑んだとの表白は、読者の一人として実際の語られた言葉で判断するしかない。生命学なら一歩も二歩も引いて、学者としての言葉をまず拝聴するしかないが、性にまつわることは、個別的で特殊な体験をリアルにみんな持っている。一人一人が一家言持っているということです。その特殊性をいかに説得力を持って語るかは結構むずかしい。深く掘り下げれば言葉にならない底が抜けている闇が性であることは間違いない。
それは多分に自己探しのような困難なものですが、問題は僕のように自己探しなんか、欺瞞だよと考えるスタンスでは、性を語る、自己を語る振る舞いは肝心なものを隠す身振りではないか、そんなのへそ曲りの読解かもしれないが、著者の性を語るエクリチュール森岡正博氏独自の特殊性がない。本人も気がつかないのかもしれないが、何か肝心なものを隠している。そうでなければ、こんな決まり文句のフレーズで、又は荒っぽい独りよがりな論理の展開で書けるはずがないと思いました。著者自身は<私の告白>を強調するが、その告白があまりにも通り一遍で、教科書的だったということです。ちょいと、厳しい評かも知れませんが、僕は余人をもって代えがたい特殊性が森岡正博氏の真骨頂と思っていたので、残念です。
bk1書評続く…[……]

参照:『感じない男サイト』『感じない男ブログ』
でも、マイミクさん、てるてるさんは、森岡さんを受け入れる。森岡さんはよく「僕は大学でしか働くことが出来なかった社会不適応な男だ」みたいな言い方をしますが、そのような自虐的、弱者的な言い方が共感を持って受け入れる素地になっている側面があるのではないか、しかし、実際のところ大学の教授は社会的な尊敬を注がれる。尊大でなくてもいいけれど、必要以上に『感じない男』を書いてしまう男と生命学者としての男とがある種、引き裂かれて『無痛文明論』という奇書を発刊したのですが、この本に関してもbk1レビューを書いているので一部引用してみます。

bk1書評より[……]一体、彼が拒否する無痛文明とは何か。冒頭でこの言葉を思いついたのは、ある看護婦さんの話を聞いた時の事だと記す。彼女の受け持つ集中治療室に意識の混濁した患者が運ばれて来た。「すやすや眠っている」状態である。適切な治療と看護を施しているから患者はとても幸せそうである。恐らく再び目覚める事はないであろう。点滴を受け彼女のケアによって身体は清潔に保たれ温度は快適に管理された部屋の中で安らかな表情で眠り続ける人間。悩み事も痛みも不安も恐怖もない。快適な眠りの中に居続ける。「結局、現代文明が作り出そうとしているのは、こういう人間の姿なのではないか」、彼女の疑問から派生すると記す。
 ただ、誤解されやすいが、既存の言説で権力構造を中心に置いたシステムをマッピングしたニ項対立、管理/自由、帝国/マルチチュードネグリとハートの)、と同次元の構図を提示しているわけでなく、恐らく脱構築という言葉さえ嫌う、著者の非常に私小説的な告白から降り立った一人の人間が、内も外も無痛奔流に浸されて自分の影との戦い似たものにならざるを得ない負け続ける遠い道のりだと覚悟しているということである。 
 ペネトレイターに貫かれて自己形成する「この私」の繋がりが森岡正博なのであり、影も又、神出鬼没である。あらゆるジャンルに触手を伸ばし縦横無尽に語る彼の言説は複雑怪奇かも知れぬが、結局、たった一つのことしか彼は発信していない。予測不可能な一回切りの生命の欲望に中心軸で耳傾け、かけがえのない生を生き抜くこと。そのためには、この無痛文明に対してノンと拒否する。「死ぬのは怖くない、ただ痛いのは困る」と、そんな至福より自堕落な眠りが心地よい人にとっては、この本は単なる紙屑だ。オール・オア・ナッシングなのだ。この本の書評は不可能である。ただ、受け入れるか、拒否するかどちらかなのだ。

 実際、この本を上梓した森岡さんはアカデミーの場を去り、次なるステージへと「痛い世界」へと飛び立つのかと思ったのですがそれが、『感じない男』だったわけです。「痛さ」についてそこまで書きながら、「性告白」をそこまで言いながら結局居心地の良いところに着地している。そのような腹立たしさが森岡さんに対してあります。
 恐らくそんな僕の感性が赤木智弘さんにある部分シンクロしたのでしょう。期待したのに裏切られた、まあそれは手前勝手な振る舞いですが、理屈でわかっても、森岡さんの処世を受け入れても僕の「感情」が引っかかるのです。赤木さんも宮台さん、上野さんを始め豪華執筆陣に対してそんな引っかかりがあったんではないか、
 ただ、『バックラッシュ!』について弁明すれば、宮田さんのいう読者共同体は双風舎にあっては、精々一万部で谷川さんもそんなメインターゲットで編集したと思うのです。都市部の書店、アマゾン、大学生協と院生、大学生がターゲットで『限界の思考』と同じような読者共同体を想定したと思うのです。
 その辺に関して宮田さんはいらぬお節介を厭わず谷川さん当てにブログ手紙を書いたわけですが、最高値を一万部に線引きして出版することは一つの見識だと思います。直販で一万部なんてのは凄い実売数です。確かに、数千部の実売では「外」の読者共同体につながらない。でも、僕個人の意見としては数千部の世界で一人出版社としてとにかく地道に出版を持続してもらいたいのが本音です。
 森岡さんの『感じない男』は、新書として何十万部のベストセラーを想定した本だと思います。「外部」とつながろうとしたわけですよ、でも実際は小谷野敦さんの『もてない男』ほどにも売れなかったのではないか、間違いなく小谷野さんのこの本は「外部」につながったわけですよ、逆に言えば僕のような教養コンプレックスの強い男(?)は、新刊本屋でも、図書館でも、新中古書店でもやたらめったりとお目にかかるのに、いまだに読んでいないのです。宮台真司の「もてる男言説」の方を読んでしまう(笑)。
 うたかたの日々でソネさんが柴田翔の『されどわれらが日々』を読んで内心「け!」だったと、小谷野さんの新作『悲望』は非モテ系青春小説だとコメントしながら、書いていますが、そう言えばソネさんも森岡さんの『感じない男』を評価していた。僕が柴田翔を読んだのは高校のときで当時文芸部在籍だったこともありますが、こういう小説をこれから書かなくてはいけないみたいな模範小説でしたね、教養コンプレックスを下支えしたモテ系青春小説ですね、実際、僕たちの高校、大学の頃はわからなくとも「教養」がビジネスになっていた。
 そんな状況ではメインターゲットが院生、大学生であろうとも、知的ファッションとして宮田さんの言う「外」の人々が「人文系」を何十部単位で購入してくれた。羽仁五郎の『都市の論理』にしろ淺田彰の『逃走論』にしろ、女の子たちがグッズとして購入する現場を書店員としてみたわけです。多分『バックラッシュ!』もそのような噴き上がりを期待したのかもしれないですね、そのような認識のズレが宮田さん、赤木さんにはあったんだろうと思う。