反ユダヤ主義者&バックラッシュ

 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)はブログのテクストをネタにアップしたものでなく、2004年後期の神戸女学院大学講義ノートをネタに編集されたもので、やはり、内田樹先生の授業は面白じゃぁ〜ないかと、ナットク出来る一冊ですね、その中にこんなくだりがあります。
 「反ユダヤ主義者」を「バックラッシュ」に言い換えてみると、僕の言いたいこととそのまんまだと思ったので付箋として引用しました。
 武田徹さんの言う「森喜朗的なマッチョイズム」の人々が「立派な人間」であるかどうかはわからないが、それでも、「立派な人間である」かもしれないというところから出発して考察する方が生産的であろうと思う。「立派な人間」だからこそ、トンデモ本的発言をしてしまう、又は「立派な暮らし」を受け入れている人々だからこそ、トンデモ発言を受け入れてしまうのではないか?という問いです。
 僕のように煮ても焼いても食えそうにもない(多分、内田先生もそうですが…)人間はトンデモ発言に「け!」って反応してしまうのですが、どうも世の中はわかりやすい陰謀史観、トンデモ科学で、簡単明瞭な敵、処方箋を欲するのですね、闘うのなら、そのような状況に対してであって、例え切実さが、足下を脅かしていても安易に答えを構築すべきではない、それでも、辛抱出来ない、切実さに囲繞されて余裕ない、早く処方箋を調合せよと火が噴いても、仕方がない、個々それぞれが、覚悟と落とし前をつけるしかないのだろう。まあ、僕の中では「滅び願望」が強いから、そんな風にすぐに言ってしまうのですが、「滅びる」ことで世の中の再生を図ることもあり得る。僕の処方箋は「滅びの覚悟」しかないと言うことです。先日、炎天下の中、久しぶりに墓掃除をしました。

 生来邪悪な人間や暴力的な人間や過度に利己的な人間ばかりが反ユダヤ主義者になるというのなら、ある意味で私たちも気楽である。そんな人問なら比較的簡単にスクリーニングすることができるからだ。その種の「悪人」だけに警戒の眼を向けていれば破局は回避されるだろう。しかし、私が反ユダヤ主義者の著作を播読して知ったのは、この著者たちは必ずしも邪悪な人間や利己的な人間ばかりではないということであった。むしろ、信仰に篤く、博識で、公正で、不義をはげしく憎み、机上の空論を嫌い、戦いの現場に赴き、その拳に思想の全重量を賭けることをためらわない「オス度」の高い人間がしばしば最悪の反ユダヤ主義者になった。
 単純な「反ユダヤ主義者=人間の皮をかぶった悪鬼」説によりかかっていれば、たしかに歴史記述は簡単になる。しかし、そこにとどまっていては、今も存在し、これからも存在し続けるはずの、人種差別や民族差別やジェノサイドの災禍を食い止めることはできない。
 「反ユダヤ主義者の中には善意の人間が多数含まれていた」という前提を平明な事実として受け容れて、そこから「善意の人間が大量虐殺に同意することになるのはどのような理路をたどってか」を問うことの方が、「大量虐殺に同意するような人間は人間以下の存在である」と切り捨てて忘れてしまうよりも思想史研究の課題としては生産的だろう。
 反ユダヤ主義者のことを考えるとき、靖国神社に祀られているA級戦犯のことを連想することがある。東條英機以下の戦犯たちを「極悪人」であると決めつけてことを終わりにする人々に私は与しない。また、彼らの個人的な資質や事績の卓越を論って、「こんなに立派な人物だったのだから、その遺言は顕彰されて当然だ」と主張する人々にも与しない。むしろ、どうして「そのように『立派な人間』たちが彼らの愛する国に破滅的な災厄をもたらすことになったのか?」という問いの方に私は興味を抱く。(104〜105頁)

オンライン書店ビーケーワン:私家版・ユダヤ文化論
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