ただ見ることの汚辱

オンライン書店ビーケーワン:いまここに在ることの恥
 久しぶりに梅田に出かけたら暑さでグロッキー、口の中がネバネバで、水分補給ばかりしていました。阪急構内の200円の生ジョッキーをグイしたら、余計しんどくなったのでした。映画の『ゲド戦記』でも観ようと思ったのですが、今日はレディースデーなんですね、切符はソールドアウトで残念無念。それで、中之島図書館に移動して端末を借り、てるてるさんのコメントにレスを書く。集中力がないのか、床屋談義のレスになりました。ごめんなさい。

[…]キャンプはその意味でコロセウムに似ていた。コロセウムには内周と外周が、倫理の境界のように伏在し、内周内で発生するいかなることにも外周外に立つ者は責任を負わずにいることができた。だが、倫理における内周と外周なんてそもそも存在しないのだ。主観主義的な幻想の外周はいくらでも外側に拡張できる質のものであり、同様に、内周を好き勝手に内側にせばめていくこともできる。私たちはこうして気まぐれに「見る者」ないし法的な(ロジカル)な「部外者」として、一般に羞恥心も自責の念もももつことなしにコロセウムの外周に立ちつづけることができるであろう。コロセウムとは古来そういうものだ。だか、問題は依然、現在である。あの広場が2006年に現存したとしたら(じつは形を変えて随所に存在するのだが)、視覚的にはなにが起きるのであろうか。おそらく、少なからぬヴォランティアたちが勇躍、広場の内周内にわけいるであろう。ここに国際社会における?善?の存在が顕示され、同時的に矛盾の実相が希釈され、アフガンやイラクの例を見るまでもなく、?善?は宙吊りのまま、なにごとも決定しえずに褪色していくかもしれない。しかして外周には、サッカー場のように派手な看板が立ちならぶのではないか。それらは、もっぱら外延に位置する「見る者」=「部外者」に向けられるであろう。家電、生命保険、清涼飲料水、テレビ局、新聞社(例えば、「ジャーナリスト宣言!」)、はたまたエイズと貧困撲滅の看板。こうして、内側の慟哭は隠されるか薄められるかするであろう。(p26)

 電車中、図書館の新刊棚から借りた辺見庸の『いまここに在ることの恥』を読む。本書はカンボジアのキャンプでの『炎熱の広場にてー痛み、ないしただ見ることの汚辱』から始る。「ただ見ることの汚辱」を突きつけられると何にも言えなくなる、でも、それでも言うことでしか、表現することでしか、表現者の生き様はない。「恥」を刻む闘病の中で紡ぐ作家のやむを得ざる業の一字一字が痛ましい。

 広場があった。私は広場の外延に突っ立っていた。少し吐気をもよおしていた。風はそよとも吹かなかった。パルメヤシは空に描いたただの書き割りと変わるところがない。まるで微動だにしないのだから。大地はフライパンのように灼けていた。植物が枯死するみたいに、次から次へと人が身まかっていった。悲嘆は、ないわけがなかった。しかし、悲嘆も慟哭も暑熱に涸らされていた。赤ん坊がよく死んだ。死ぬ前からハエがたかりつき、熱病の赤ん坊の顔面で交尾したり眼窩に産卵したりした。子も母も、泣き叫ぶより、狂った。あまりの熱れで風景はかすみ揺らめいて、そこにおびただしい人の群れがいるというより、すべては陽炎となり、海藻さながらに地の奥からゆらゆらと立ちのぼっているかに見える。私は吐き気をおさえて広場を眺めていた。広場のなかへの距離をつめようとはせず、外延から見ていた。ときたま、目の前に白髪、裸足の老婆が無言でぬっとたちあらわれて、びっくりするほど長い、茶色に錆びた針金のような腕をさしのべてくることがあった。なにかものを乞うていた。よく見ると、老婆と見えたのは少女であるらしかった。蓬髪はほこりだらけ、カンボジアのどこからかここまで歩いてくるうちに痛めたのであろう。腰をくの字に曲げていた。少女は広場の内側から外側に脚はまたがずに、手だけをのばしてきたのだ。円周内から外延への不規則なはたらきかけを私は想った。刹那、倫理の境界のようなラインを脳裏に白いチョークで線引きするようなことをしたのだが、白線はすぐに炎暑に融けた。(p10〜11)

 淀屋橋土佐堀川に面した中之島を目の前にする最高の立地条件で160円の珈琲を出す「VELOCE」でゆったりしながら、図書館で借りた内田樹さんの『私家版・ユダヤ文化論』を読む。新書なのに剛速球の本です。濃い過ぎる内容です。『他者と死者』以来の内田樹さんでないと書けない本ですよ、様々な問いが投げかけられています。オリオンさんが一ヶ月近くブログを更新していなかったのですが、再開してこの本に連日コメントしている。

 彼らはあるきっかけで「民族的奇習」として、「自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」を彼らにとっての「標準的な知的習慣」に登録した。(p181)

 大胆な仮説を投げてくるのです。このところ、内田さんの本は少し食傷気味だったのですが、この本は違いますね、腹にこたえます。
参照:★考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(1) - 不連続な読書日記考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(2) - 不連続な読書日記考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(3) - 不連続な読書日記考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(4) - 不連続な読書日記考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(5) - 不連続な読書日記考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(6) - 不連続な読書日記考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(7) - 不連続な読書日記