自己表出はソウロウ文?他者を歓待(表現)?

 下で、宮台真司主催「思想塾」に関するエントリーをアップしたら、miyadai.comにリンクされたためか、常連さん以外の一見さんが多数訪問して下さいました。
 僕は単に東京は遠くて参加出来ないからズボラして三省堂神田本店で開催された「ライフ・ポリティクスの現在」のレポを参加者の方達で、トラバして欲しいなぁ…と、調子こいたわけです。そんな甘えにリンクを張って下さったり、トラバしてして下さったわけです。ありがとうございます。こういう反応はブログ更新のエネルギーになってしまいますね。
 でも、僕は本文にはほとんどコメントらしいものを書いていなかったので、せっかくの訪問者が「なんじゃぁ、こりゃぁ、このブロガーは何にも自分の意見を述べていないじゃぁないか?」って顰蹙を買ったと思う。それで、中途から追記として、増補っていうか、自分の意見らしいのを書き継ぎました。
 僕はこの思想塾に参加しなかったので、みなさんのレポを読んで、このことに関してだけは僕らしい意見が言えると思ったことは、『感情の政治学』の大文字テーマで、もっと、フォーカスして「表出」と「表現」についてなら、一ブロガーとして、「切実でもあり、論理的に」、いくらか語ることが出来るであろうと思いました。
 『感情の政治学』の大テーマは「国の為に戦って亡くなった人を弔うのが、なぜ悪いのでしょう」と、麻生外務大臣の言葉を頭に風の旅人さんが『人生観と生活感覚と靖国問題』をエントリー*1していますが、「情のフェーズ(位相)」と「理屈の位相」をごちゃまぜに語っている人が多いのではないか、情として靖国参拝はするけれど、理屈では内閣総理大臣という肩書きを記名して参拝して欲しくない、僕個人では参拝しましたよ、無名の市井の一人として…。神社にお参りするのは好きですからね、家の近くにもありますし、京都でも、まあ、お寺にもお参りしますから、「自分のために祈る」に過ぎない。それはある種、「情としての表出」でしょう。理屈で論争をしようとする姿勢はコイズミさんにはないですよね、「心の問題」って逃げに過ぎない、引退したら、「何故、靖国内閣総理大臣としての名前で参ったのか」を「表現」として語って欲しいですね、
 ヒグラシさんが、社会に訴えるには(1)「声をあげる」(2)「論理にする」(3)「説得する」という三段階があると端的に書いていました。(2)から(3)の問題は「表現とは何か」に関わることでしょう。表出を恥ずかしいと思う心音から出発して、それでも、切実な叫びを発信する人たちがいるんだと言う受信装置、アンテナを「表現者」たるものは鋭敏に保っていなくてはならない、でも、ヒグラシさんのコメントにレスしながら、やっぱし難しい課題だと思う。
 >私は(1)で止まってしまうことが多いので、できたら、(1)のまま聞いて欲しい!と思う一方で、例えば仲正昌樹さんが言われているような「声を聞こうたって、本当にできるのか?」と言われると、できないかも…と弱気になります。……、
 「自己表出の小説」が結構、読まれていますが、どうもそれは同じ悩みを共有する穴ぼこコミュニティで流通しているそこそこ売れるビジネス(数万部)になっていると思うのです。「表現になっている作品」が売れない(精々数千部でしょう)悩ましい問題は、
 (1)で精一杯の人にとってはそんな作品は知的遊戯に思えるのかもしれない。でもそんなこと、しっちゃぁいないって、兎に角、作品を仕上げることに全力投球する、明日世界が滅びようとも、そんな「表現バカ」の極北を僕は尊敬したいというところがあります。例えば小説家保坂和志は政治について全く語ろうとしません。だから、彼の作品を読みたいというのもあるのです。ひょっとして、(1)の叫びを表現として定置出来うるのは小説家・詩人、画家、写真家などの表現者だけではないのかと言う思いがあります。そもそも、社会評論家には仲正昌樹さんが言うように、「本当にできるのか?」って言う疑念がありますね。でも、それをやろうとする評論家は「生き生きとした言葉」を演技(演技ならもちません)でなく、確信犯的に身体化する必要がある。双風舎さんの『バックラッシュ!』論争にもそのような問題が横たわっていると思う。武田徹さんがフォローしていましたが、赤木智弘さんの「反バックラッシュ非難」は(1)を取り込んだ社会評論をやりたいという彼の切実な思いが「早漏的な表出」になったわけですよ、そうではなくて「じっくりとした表現」とは宮台真司さんの言葉ですが、僕の中にはそもそも、社会評論で「表現とは可能か」という疑念があります。
詩人の言葉は信用出来るけれど、評論家の言葉は眉に唾して考える。それがメディア・リテラシーだと思いますが、最近は詩人でも堂々とCMに登場して営業するから、気を付けた方がいいですけれど…、逆に僕は信用出来る言葉を発する人が詩人だと思うようになっています。
 森岡さんの『無痛文明論』はとても奇妙な名著です。間違いなく表現になっている。でも『感じない男』は自己表出の極め付きで表現になっていないと思うのです。まあ、このような僕の言い方は自己表出的な批評なので、森岡さんは全然こたえないと思いますが、もし、こたえるとしたら、僕の批評が表現になっているということでしょう。まあ、それはプロの仕事ですね。
 >どうやって、(3)とか「表現」にたどりつくのかは、私にはまだわかりません。(2)は頑張ればできそうなんですけど。ここでハウツー的なものを求めたら、いっそう「表現」からは遠ざかりそうです。というわけで、私はモタモタ「表出」しているわけで、宮台さんにそういうこと言われると「やらないんじゃなくて、できないんです!」とルサンチマンな気持ちになります。そういうルサンチマンな自分にさらに落ち込みデフレスパイラル!みたいな。
 よくわかります。でもモタモタでいいのではないですか、僕もここでモタモタ日々ブログ更新しているわけです。ほとんど「自己表出」ですが、ひょっとして「表現の卵」が産まれるかも知れない、僕が表現の閾まで行き着かなくても、(1)のレベルの僕の表出を誰かが受け取って、「表現」してくれる僥倖があるかもしれない。「表現」は自己所有の「自己(表現)」ではなくて、僕であれ、ヒグラシさんであれ、あらゆる人につながる「他者の発見」としての「表現」なんだと思う。時空を越えた永遠につながるものなんだと思う。
 >ところで、カエルさんも書いてらっしゃったんですけど、宮台さんのファンは男性が多いんでしょうね。「早漏」って…女性はどうなんだろうとか、ウィキで調べたけどわからなかったです。早漏?褒め言葉っぽい感じがします。
 「遅漏」っていう言葉もあります。これも哀しいものでしょう。女の人が想像すれば、早漏っておしっこのようなものなんだという理解でいいでしょう。そんな感覚です、遅漏は「便秘のようなもの」でいいでしょう。だから、どちらも快感度が低く、褒め言葉と程遠い、女の人は絶対に男の人に向かって「早漏男」って言わない方がいいですよ、セクハラになってしまうかも…(笑)。
追記:ヒグラシさんの宮台さんのファンは男性が多いのでしょうね、という問いにぴったりなサイトがあります。ここ↓
http://adlab.microsoft.com/DPUI/DPUI.aspx
ここにURLを入力すれば、あなたのブログ、HPのメイン年齢層、男女比率が検証出来るというのです。信頼性に関しては保証のかぎりでありませんが、お遊びでクリックしてみたら、
こんな結果が表示されました。

宮台真司: 男0.89 女0.11 メイン訪問者の年齢構成25〜34歳
森岡正博: 男0.58 女0.42        35歳〜49歳
保坂和志: 男0.58 女0.42        18歳以下
藤原新也: 男0.44 女0.56        18歳〜24歳
内田樹 : 男0.42 女0.58        18歳〜24歳
茂木健一郎:男0.77 女0.23        18歳以下
小谷野敦: 男0.56 女0.44        18歳以下
僕は:   男0.68 女0.32       25歳〜34歳です。 

 僕がよく訪問するサイトと僕自身のデータです。しかし、藤原新也さんには驚きです。女性の訪問者の方の方が多いのですから、僕の知り合いにもシンヤさんファンの旬の女の人が多いですね、僕と同年なのに、羨ましいです(泣)。保坂さんはひょっとして女子高校生かな、意外と森岡さんは女性の年齢層が高い、ご婦人ですね。内田さんは新也さんと似たデータですね、これもわかります。宮台さんは予想通り、青年が多いですね。茂木さんは少年ですか?これも羨ましい(笑)。小谷野さんは女の人の比率が高いですね、それも若い!保坂さんと似た比率だなぁ…。
 みなさんもURLを入力して遊んで下さい。変に解釈しない方がいいですね。 

*1:頭でっかちで根を持たない「べき論」は、肌感覚や生活感覚と一体化した心情の前に無力だ。いくら言葉を駆使しても、心の底からそう思っていないことが見透かされてしまう