羞恥心とは何か?赤面ライダー

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下記にエントリーした内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』を読了。

 レヴィナスユダヤ教の時間意識を「アナクロニズム」(時間錯誤)という語で言い表している。アナクロニズムとは「罪深い行為をなしたがゆえに有責意識を持つ」という因果・前後の関係を否定する。
 「重要なのは、罪深い行為がまず行われたという観念に先行する有責性の観念です。」
 驚くべきことだが、人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである。レヴィナスはたしかにそう言っている。
 私はこの「アナクロニズム」(順逆を反転したかたちで「時間」を意識し、「主体」を構築し、「神」を導出する思考の仕方)のうちにユダヤ人の思考の根元的な特異性があると考えている。
 この逆転のうちに私たち非ユダヤ人は自分には真似のできない種類の知性の運動を感知し、それが私たちのユダヤ人に対する激しい欲望を喚起し、その欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意が道具的に要請される。
 ユダヤ的思考の特異性と「端的に知性的なもの」、ユダヤ人に対する欲望とユダヤ人に対する憎悪はそういう順番で継起している。サルトルには申し訳ないけれど、ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者ではない。やはりユダヤ人が反ユダヤ主義者を作り出したのである。
 この行程を逆から見ると、反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎むのは、それがユダヤ人に対する欲望を昂進させるもっとも効率的な方法だからという理路が見えてくる。(p217~8 注:傍点を太字で変換しました。)

 この欲望は愛情に近いものでしょう。深度のスケール。ところで、同時に読みつないで行った辺見庸の「恥」もアナクロニズム的「恥」ではないか、恥ずべき行為が行われたから、又は世間的恥が露呈されたから、因果の法則で「恥ずかしい」のではない、すでに「在ることが恥なのである」、『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社)はそのような本であろう。自栽した江藤淳のメモ「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処刑して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」。に対して、辺見庸は言う。

 しかし、これはまちがっている。「江藤先生、もの書きに形骸はないですよ」と私は思う。いや、もの書きにかぎらない。人の実存に形骸はありえないと私は思ったのです。だから、江藤さんの遺書といわれるこの江藤メモこそ、私に「おまえは、みっともなく無様でもいいから、生きろ。いや、おまえは、みっともなく無様であるゆえに、死ぬな」と教えてくれたようなものなのです。いずれの日にか私も自死するかもしれない。それを否定しません。しかし、いまは、そして予見できる長くもない未来は「おまえは、みっともなく無様であるがゆえに、死ぬな」と教えてくれたようなものなのです。いずれの日にか私も自死するかもしれない。それを否定しません。しかし、いまは、そして予見できる長くもない未来は「おまえは、みっともなく無様であるがゆえに、死ぬな」と自身に言い聞かせるでしょう。(p137)

 「恥」は排除すべきものにあらず、赤面しながらも、「恥」を蔵することで、他者(隣人)はやってくるのではないか、田川健三の『イエスという男』で《「良きサマリア人の譬」で、「だれが我々の隣人なのか」という律法学者の問いにイエスは「だれがこの被害者に対して隣人になったのか」という問いを対置した。隣人とは、自分の方から隣人になるものだ、というのである。》
 過日、エントリーした辺見庸の『いまここに在ることの恥』で老婆のような少女のやせこけたさしのべられた手を引用しましたが、コロセウムの内周に踏み込みことでしか、他者との交歓はあり得ない。だが、作家だけでなく、ジャーナリストたち、自在に移動する外周から見ることの汚辱に浸されて「単に見続ける」、隣人(他者)を追放してしまっているのです。

 「他者に対して、私は食べること、飲むことから始まる有責性を負っているのです。いわば私が追い出した他者は私が追い出した神に等しいのです。[……]過失を犯していないにもかかわらず、罪の意識を抱くこと!私は他者を知るより先に、存在しなかった過去のあるときに、他者にかかわりを持ったのです」(p221)

 内田樹は『私家版・ユダヤ文化論』で《人間はまず何かをして、それについて有責なのではない。人間はあらゆる行動に先んじて、すでに有責なのである。レヴィナスはそう教える。》と結語する。

 だから、もし神が真にその栄光にふさわしい威徳を備えていることを望むなら、人間の主体的決断によってなしたことの当否を神が事後的に査定するという順序でことは進んではならないのである。人間は隣人を歓待するか追放するかの選択に先んじて、隣人を追放したことについて有責なのである。 

 せめて何の宗教のよりどころも持っていない僕ができることは、出来事に対して赤面する「恥」を最低限のよりどころにしたいということです。かって、過去エントリーで、書いたことであり、読書会でも取り上げた大澤真幸の『文明の内なる衝突』で「恥」について考えたことで、もっとも忘れられないエピソードをもう一度引用する。

SSは、囚人をある収容所から別の収容所に急に移送することがあった。ブーヘンヴァルトからダッハウへの移送のための行軍の間に、SS隊員は、体調のせいで行軍を遅らせる可能性のある者を銃殺したという。銃殺者は、ときに、まったく行き当たりばったり式に選り分けられた。あるとき、若いイタリア人が選ばれた。そのイタリア人の若者、大学生だというその若者は、選ばれたときに、ひどく赤面した、とアンテルは書いている。そして、その顔の赤さは今でもアンテルの目に焼き付いている、と。確実なことは、この若者は、生き延びることを恥じているわけではない、ということだ。間違いなく、彼は、自分が死ななければならないことに関連して、恥じている。

 羞恥とは何であろうか、いまだによくわからないのです。ただ、こんなことが昔ありました。ものの考え方も、生き方も全然違う、歳の離れた若者が、僕になついてしまったから、なんでや?って言ったら、最初に会ったとき、「くりさん、顔を赤らめたから…」って、キモイ返答でした。でも僕の記憶ではそいつが顔を赤らめていたのです。以外と僕は感染しやすいのです。だから、相手によってカメレオンの様に色が変わるのです(笑)。