唐心ならざるものをもってして大和心とする

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 保坂和志さんの教育かながわのインタビュー記事がアップされましたね、今回は結構、キツイことを書いている、でも、とてもあたりまえのことだけどね、問題はそのあたりまえのことが通じがたくなったということが問題なんでしょうね、前日、↓で宮台真司さん達のインターネット動画を楽しんだのですが、そこのトークで結局最後に問題になるのは、「プラット・フォーム」、「規範」だと思うのです。
 保坂さんは「教える」ということは結局「規範」を教えると言う。
 ただ、それは「私は認めたいんだけど、学校としては・・・」と言った卑怯な振る舞いの「外在規範」を気づかせて「処世術」を教えることではない、そんな汚れは十代の子ども達に察知されてしまう。
 保坂さんが好きだった先生は「学校や社会のルール」がどうであろうと、「私が認めない」と言ったものは「認めない」と言ったのです。そのような強さは「内在としての規範」だと思いますね、それは、連日、僕自身も書いていた「感情を内包する理屈」であって、そんな言語でないと説得力を持ち得ない。
 ルールも法も、そんな言語を装填している。一方で「多様性」、「流動性」を受け入れつつ、そのような断固とした「内在規範」を身につけるアクロバットは可能かと言うのがありますね、上からの「愛国心」教育で教え諭すものであってはならないということはわかるのです。「滅公奉私」を隠蔽した「愛国心」教育なら困るわけです。ボランティア活動を強制するなんていう発想はオカシイですよね、その気にさせるっていうのなら、わかります。それが教育でしょう。
 まあ、ネタに終始してしまうと、その気にさせないでしょうね、それで、経済原則のエサで積極的にボランティア参加をするとこんな美味しい実利があると取引を行ってしまう。これは教育ではない。ベタに「私が認めない」と断言できる人であって初めて「教える」ということが可能だと思うのです。
 実利や人気取り稼業の処世を教えることが「学校教育」であり、「倫理」、「規範」、「プラットフォーム」、「心」を教えるところではないと、「小さな政府」のようなノリで「小さな教育」って言うか、徹底した「職業教育」を早めに実施する教育行政宣言なら、まだ、理解が届くのですが、一挙に「愛国心」なんて言うプラットフォームを提示されるとナンダカなぁ…と思うわけです。そりゃあ、教育のキモは「心」だと思いますよ、「規範」で間違いない、でもそれは、教育現場で一人の教師の実存を通して実現して行く困難な道でしょう。本来、マニュアル化出来得ないものでしょう。声高に語る「マニュアル化した愛国心」は眉に唾するクールさを持って対応したいと思う。
 昨日、とみきちさんが読書日記で佐藤優の『国家の崩壊』のレビューを書いているのですが、そこで、とみきちさんが引用しているのを孫引用。

……ロシアは伝統的に防衛戦争には強く、侵略戦争には弱いんです。(…中略…)それは、ロシア人が国家というものに正義を求めるからです。国家が正義を保っているときには、それに結集して強く闘う。ところが、正義がないときには、弱いんです。

 それを敷延して佐藤優否定神学を基底とした「ユーラシア主義」について語るのですが、これは上で言う、「規範」であり、「プラットフォーム」ですね、

西側のやり方は、ビザンツ神学でいうところの肯定神学なんです。「これは何々である」と、「ユーラシアとはこうこうである」と規定する。それに対して、ユーラシア主義というのは、本居宣長が言ったように、「唐心ならざるものをもってして大和心とする」というやり方です。つまり否定神学の方法ですね。

 成る程なぁ…と思いました。とみきちさん、この本は未読なので、読んでみます。やはり、表層だけを語る、戯れる本はつまらない。共感出来るか否かを別として、こんな風に自分のプラットフォームを開かしながら記述する本は面白い。それぞれの「倫理」がキモでしょうね。「倫理のない語り」は結局、ゴミでしょう。でも、一見、ゴミのようなものでもリサイクル出来るものがあるけれど…。
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 ◆『深夜シマネコ』さんのこの問いかけは面白い。

しかし、いつからなんでしょうかね。このように安倍晋三のような既得利権者の言葉が既得利権に対抗するかのように聞こえ、逆に左傾論者たちの言葉が、既得利権の保護を訴えるように聞こえてしまうようになってしまったのは。

 実際はそうではないかも知れないが、そんな風に普通の人々(実体はないけれど…)に思われているらしいということは何となく実感として感じる。そのことが問題なんだろうなぁ…。「理屈の応酬」が立場交換可能なディベートのフレーム内でしか届かない言葉になってしまう、そうではなくて、実体はあるかもしれない「普通の人々」に届く言葉で語ることが問われていると思う。そして、言葉が届けば「実体のある普通の人々」(具体的な層として)が出来する。先に言葉ありきで、それは規範というフレーム、規矩でしょう。その規矩は日々の実践の中で更新され続けるOSなんだろうなぁ…。言葉に賭けるは実践でしょう。言葉なんかどうでもいい、実践だという居直りに陥る人にも届く言葉があるとしたら、人間が言葉を作るのではなくて、言葉が人間を作るのだと信じていい。