ニホンゴの普遍

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 マイミクさんも、仲俣さんのブログ橋本治のどこかで言ったという「私の書く評論はじつは『自分』を主人公にした『小説』だし、自分の書く小説は『他人』を描くことを通しての『評論』でもある」と紹介してくれましたが、昨日から気になるフレーズとしてありました。 そしたら、小谷野さんの本日のブログで『最近、漱石が嫌い』を読んでいたら、「批評とは他に託して己の夢を語ることだと言ったのは小林である。」と書いている。相変わらずの小谷野さんの日本近代文学の蘊蓄ぶりには感心します(まあ、プロなので当然ですが…)。
 最近、坂東真砂子問題で、藤原新也ブログで『それを言っちゃあ、おしまい』と、かっての藤原さんらしからぬ含羞を説いて一部の人に顰蹙を買っていましたが、僕は今の藤原さんの表情が好きですね、確かに彼はかって、「それを言っちゃあ、おしまい」のような強い言葉を発信して様々な波紋を広げたりもしましたが、彼の全体の軌跡で批評すべで、鬼の首をとったかのような批評は自己を安全地帯に置いた「自己語りの腐臭」がつきまとう。
 そのような屈折を内蔵しながら、自己相対化してそれにもかかわらず強い意志で評論する行為は普遍に向かうというゴールを引き寄せると思う。そのような自己表出が「表現」として芸になるために小林秀雄の修練があったのでしょう。
 ライターでもなく、大学の先生でもなく、どこかに所属している何とかでもなく、評論家一本で仕事をしている評論家は、どのくらいいらっしゃるのだろう、今はテレビのワイドショーのひな壇に並ぶコメンテーターが権威を持った評論家として偽装認知されているのだろうか、
 何時の頃からか、「評論家」であること、それ自体で、信用出来ない者、胡散臭い者として指呼されるようになったのか、それでも大学という権威の舞台がまだ稼働しているからそちらにトラバーユして、拠所にして批評言語を吐き出したりする。重々しい肩書きもそうでしょう。
 どちらにしろ、評論は他人の褌で相撲を取る自己言及から逃れられないのでしょうね。そんなことを思っていると小谷野さんが『悲望』という小説を書いたことの動機の一因が少しはわかるような気がします。それが「『他人』を描くことを通しての『評論』」であるかどうかは、僕にはなんとも言えないが、読後の感想を言えば「風通しの良さ」を感じました。少なくとも「他人」が描かれている。
 念のため、評論家とはウィキペディアを覗いたら、「自分で実行しないで他者の行為をあれこれ言う者のこと。」とあった。他者を鏡にして、マイクにして、自分のことをとやかく語る人を言うわけで、まあ、あたりまえと言えば当たり前なんですが、「他者を描くことで自己が露呈する自己は普遍の自己なんでしょう」。そのかぎりで自己は他者でもあるのですが、上で定義された評論家の他者は自己と切断された他者であって、どうも、ダシにされたり、ネタにされたりする他者は馬耳東風と聞き流すことも出来ず時には怒ったりする。まあ、それも仕方のない反応でしょう。
 坂東真砂子の「子猫殺し」で、ネットが喧々諤々と燃えましたね。
 マイミクさんのカキコで金井美恵子の『タマや』から似たようなパラグラフを引用していました。猫に不妊手術するという「ぼく」を、ニホンジンと白人の混血であるアレクサンドルが批判するわけです。

都会で動物を飼って平然と不妊手術をさせる飼い主は、あまりにも身勝手なんじゃないかってね、だってそうだろう、彼らは動物だよ、動物が生きのびる本能っていうのは、子供を産むってことじゃないか、それを人間の都合で勝手にうばっちゃっていいのものか、と、その先生は書いていたよ。その通りじゃないか、生まれてくる生命に責任を持つべきだってね。仔猫をたとえ自分の手で殺したとしてもだね、その痛みを生物として引き受けて生きるのが本当だよ。

 しかし、僕はかってこの本を読んだのにこのパラグラフは全然記憶がない、全国紙で「子猫殺し」というタイトルに愛猫さんたちが過敏に反応したと思うが、坂東さんの言葉自体は過激でもなんでもない、目新しいものではないことは僕でもわかります。でも、あんな風に反応した。
 先日みた映画『白いカラス』で古典学教授が“spook”という差別的発言をしたということで、退職を余儀なくされるのですが、せめて、「子猫殺し」という言葉だけでなく、その文脈、せめて作家の軌跡を読む位の手間暇かけた読解をやって欲しいですね。 
 一応、この本は持っていたのに手元にないのでこのパラグラフを確認しようと地元の図書館に行ったらない、ブックオフにもない、新刊書店にもない、しまった!、処分するんでなかった、後の祭りです。つくづく地元の本屋の文庫の棚をみると、知らない著者名がふえましたね、ハーレークイーンはどんとある。ここの本屋さんは10坪ぐらいでも講談社の文藝文庫を並べていて文藝ものに強かったのですが、とうとう、方針転換を余儀なくされたのか、自分の好みの本はなるべくネットで買わないで客注でもいいから地元の本屋さんで買わないと、棚が段々と疲弊してハウツウ、エンターティメント、癒し、占い、などなどに占領されて近代文学どころか、現代文学も消えてなくなりますね、そのような状況で文藝評論家はどのような評論をするのか、 昨日、chikiさん経由で『ローゼン麻生秋葉原決起集会』の動画を聞きましたが、麻生太郎サブカル談義は面白かった。ゲームのマニュアル後略本を誰よりも先に読むために「日本語」を勉強しようとする、僕らの世代ではプレスリービートルズと歌詞を原語で歌おうと英語の勉強をする。カラオケだって日本語で歌おうとしますからね、「ハードではなく、ソフトなんだ」。
 成程、「日本語」をこの国の核において構想するなら、僕も異論はない。
 ソネさんのブログからこんな映像(「高円寺ニート組合製作」とある。)を教えてもらいました。宮沢章夫富士日記経由です。