<ぼく>と「渋谷」

オンライン書店ビーケーワン:明るい部屋オンライン書店ビーケーワン:渋谷オンライン書店ビーケーワン:風の旅人 Vol.22(2006)「隔離」という病い―近代日本の医療空間 (中公文庫)
 何故、武田徹は「渋谷」を書けなくなったのか、藤原新也の『渋谷』を批評することによって自問自答する。『風の旅人 22号』の収載された、武田徹のコラムはジャーナリストとして「報道写真」をロラン・バルトの術語、「ストゥディウム」と「プンクトゥム」で読んでゆく。この術語の説明は本書で読んでもらうか、ロラン・バルト『明るい部屋』を繙くしかないのですが、まあ、ストゥディウムはコノテーションに近いもので、「共示」と言われる。ただそれは「外示」としてのデノテーションに接続したものとして理解されるのですが、ただ、問題は以下に引用しているように「渋谷」は解離的な経験、つまりはプンクトゥムだということです。

 かってデノテーション=外示といわれたものは瞬時にコノテーションを喚起する。その意味でそれはむしろストゥディウムの入り口に過ぎない。しかし、こうしてコノテーションに横滑りすることなく、見るものの心を突き刺す刺激を写真は宿してもいる。それをバルトはプンクトゥムと改めて名づける。プゥンクトゥムの刺激は一般的な説明が不可能だ。写真を見るひとの個人的な経験と響き合うことで、他者に説明不可能な刺激が生じる。(p112)

 武田さんは10/8のオンライン日記で<ぼく>に拘泥しようとする文体の問題に言及していますが、それは恐らくここに言う「プンクトゥム」の言葉による不可能な挑戦に賭けようとする強い思いの表れかもしれない。
 大塚英志は<ぼく>を衒いなく意識して使っているのですが、まあ、僕はここでも、書くと<僕>が当たり前になりましたが、日常で喋るときは<オレ>ですね、でも、<ぼく>、<ボク>、<僕>はちょいと、違うだろうなぁ…。
 とにかく、「語り口」、「文体」にもっと意識的であるべきだと思います。メッセージ(内容)は前景化したら伝わらない、一見、伝わったような様相を呈しても、それは実利か、ある種の暴力装置が働いているに過ぎないと思うのです。まあ、そのようなゴリ押し、政治で世界は稼動するのだと言われれば、反論は出来ないですが、そのようなディスコミュニケーションを受け入れるのも一つの覚悟であろうし、そのような症候がプンクトゥムの表れとして映し出されるかもしれない。

匿名のノイズになること。それは意味の縛りから逃れることだ。だが、実際に少女を前に書き始めた藤原の言葉は、意味の縛りから逃れて来た者の話を解釈し、その行為の意味を回復させようとする。それは意味の真空地帯であり、解離の場所である「渋谷」に引き寄せられた者を、その生まれ育った故郷に、家族の許に戻そうとすることに他ならない。それは「渋谷」について書くことのーひとつヴァリエイションではあるかもしれないが、渋谷そのものを書くこととは違うように思う。
   ●
 しかし−、そこで思い当たるのだ。こうした作業は、実は藤原が写真を通じて過去に手掛けて来たものでもあったのではないか、と。車内に座り込む女子高校生の写真を藤原は「時代の証言を写真におさめるべく」撮影したと書いている。その写真は一般的な報道写真と違って、何が起きているか即座に理解できるものではない。しかしそれでも、それは解釈を求める写真だ。かねてから藤原の写真術はそうだった。いつその証言が明らかになるかは分からないが、藤原は時代の証言者を自認して撮影をしてきた。そんな写真はジャーナリズムの文脈にあり、広い意味での報道写真だ。それが優れた報道写真だからこそ筆者はそこに惹かれたのだ。
(中略)
 藤原の写真には言葉が溢れている。文章で説明しない代わりに写真で説明する、それが藤原の写真術だった。そして『渋谷』で藤原は少女達に自分の写真術を適用しようとしているのだ。
 だが既に示したように、渋谷を渋谷たらしめているのも、そこで、繰り広げられている解離的な経験、つまりはプンクトゥムなのだ。ストゥディウムを求める文章では渋谷の最新風俗は描き切れないだろうし、報道写真に渋谷の真実は映らないだろう。
 ストゥディウムの及ばない空白地帯、従来の報道写真に写し止められない解離した経験がありえるということーー。それが最近の渋谷という街の、そして更には渋谷に象徴される今という時代のリアリティなのだ。おそらく今、渋谷を最も忠実に記録しているのはそこに集う者達が互いに取り合った他愛ないケータイ写真だろう。現実には不可能だが、消去されたり、忘れ去られる前にそれらを全て一同に集めて高速でスライドショーでもしたら、そこに撮影者の意識を越えて記録されていたプンクトゥムの総体として渋谷の街の真実が、そこに集う人々の解離の状況が浮かび上がるのだろう。そうした無意識の記録に肩を並べられるような意識的な記録と表現の手法を編み出せるかどうか、それが現代を記録する者、その真実を表現しようと志す者の全てにケえられた課題なのかも知れない。(p114)