沼に惹かれる/クレーターのほとりで


 京都市立美術館で開催中の主体展に行って来ました。ギャラリーヒルゲートで、榎本香菜子始め木村正恒、岡本祐介『中川哥奈子』門屋武史、畠理弘、の六人展(Sixt Sense)も行われていたので御邪魔しました。主体展で展示されていた榎本さんの絵は『タンポポ・ベビー』で、油彩の大作ですが、葉書を購入してきましたが、中々葉書ではこの絵の肌触りが伝えられないけれど、楽しんでいます。
 六人展の方は終りですが、主体展の方はまだ開催中です。ギャラリーで、色々な作家の展覧は狭い空間だけに、苦しいものがありますね、榎本さんの銀座・シロタ画廊での個展のようなパーフォーマンスを行うには様々な制約があり過ぎる。六人の感性が一堂に会するのを狭い空間で鑑賞するには、六度の気分の切り替えをしなくてはいけないので、大変でした。会場で榎本さんと話したのですが、彼女の『最後の個体』にしろ、今回の『タンポポベビー』の神話的な沼と空というか、古層に降り立つような佇まいは、青木淳悟の『クレーターの辺で』(『四十日と四十夜のメルヘン』に収載)のファーストシーンを思い出すよと言ったのですが、彼女自身はこの本を読んでいないので、僕の勝手な偏読、絵解きです。この二枚は彼女の作品の中でもっとも好きなものですね、何か、あの神話的な沼に惹かれるのです。主体展が終わったら『タンポポベビー』の画像をアップします。
 JAKUCHU展も開催中ですね、確か17日から一部展示の差し替えがあって、前回の半券を持ってゆけば割引で入場できます。オリオンさんも行ったのですね、感想をアップしています。
http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20061015
 ところで、榎本さんの息子さんも画学生なのですが、油彩科の院生の画を見ると、閉ざされて痩せている。あまりにも世界を知らないし、知ろうともしない、むしろ、グラフィック科の学生の画の方が開かれているというような悩みを語ってくれたのですが、オリオンさんの上のエントリーの感想で引用されたことどもとつながるのだろうなぁ…と思いました。

帰りの電車で、渡仲幸利著『新しいデカルト』(春秋社)を読んでいて、次の文章をみつけた。
《小説を書き出した友人がいて、ぼくにこういった。絵をかきたいんだ、と。絵の絵をかくのでなく、絵をかきたい、と。ぼくは、なぜ彼が小説を書こうとしているのか、よくわかった気がしたのだった。》(176頁)
『奇想の系譜』に引用された若冲の言葉と、渡仲氏の友人のこの言葉が、みごとに響き合っていて、とても興奮した。
前後の文脈を紹介せず、ひとり興奮してみせても、たぶん何も伝わらないと思うが、渡仲氏がここで言っているのは、物を物として知覚するのは「思想の力」だということである。
物をつくり上げること、つまり画の画や絵の絵を描くのではなく、絵=物そのものを描くためには目覚めなければならない。
精神、すなわち物とじかに触れている思考、あるいは理性をはたらかせなければならない。
ことばもまた、そのような精神の自発性のうちに根ざしている。

 この言葉を画学生の彼に贈りたいと思いました。彼が同じ教室の油彩科の先輩、同級生達に言いたかったことはその「思想の力」だと思う。渡仲さんの本を読んでいないので何とも言えないが、この思想はイデオロギーとは違う、もっと強いものでしょう。世界をこじ開ける力なんでしょう。そうでなければ、自閉の痩せた症候の表れでしかないものとなる。
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