生きさせろ!

新しい神様 [DVD]

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 毎日新聞(10/23)夕刊の『中島岳志的 アジア対談』(雨宮処凛『右傾化する「自分探し」』)と辺見庸『既にファシズムかも』という辺見さんの『史上まれなウルトラ右翼 核武装の考え「美しい国」で隠している』との強いメッセージを掲載した記事が五面と六面になり丁度、裏表なので、保存したい記事として切り抜いてしまいました。
 『中村屋のボース』の中島さんと雨宮さんは同じ1975年生まれで、僕と同年の辺見庸さんとの30年もある年齢差の段差からくる世界の見方の相違も面白いのですが、色々と考えさせられました。
 雨宮さんは記事の中で、同年でも中島さんのいう「終わりなき日常を生きられるまったり世代」のようにまったりと生きられない、そういうことに生きづらさを感じる。まったり生きるのも才能ですが、私にはそんな才能がなかったと、雨宮さんは大きな物語=「団結できるもの」を求めて右翼になったと言う。でも、今は違う。

 雨宮 今は左翼ですから(笑い)。アンチじゃないと私は意味を感じられないんです。ただ、フリーターから右翼になった経緯は、今の人と近いかもしれない。自分がどこにも所属していない不安感があったけど、右翼になった途端「自分も必要とされている」と思えました。
 やはり、ナショナリズムは雇用不安と関係があると思う。今、フリーターのルポを書いていますが、彼らは自分を肯定できる要素が日本人であることしかなかったりする。あるいは、勤めていた工場が中国に移転して職を失ったのがきっかけで右派的な考えを持ったり。その人も中国人も、同じ労働者として大変な思いをしてるはずです。そこでつながればいいなって思うけど、弱者が弱者を憎む仕組みができあがっている。もちろん、それは何も建設的なものをもたらさない。

 それから当事者性ということで二人はやりとりするのですが、中島さんはあくまで大きな物語というフレーム枠で「あえて」空虚であろうと醒めながら熱くなるという綱渡り的な「虚妄の現実化」に当事者性を確保しようとする雨宮さんに対して、具体的な現場の人と関わり合う中で地道に当事者性を確保しようとする立ち位置に多少の相違があるみたいですが、結局は「自分探し」に収斂する。  又、「自分探し」か、僕はこの言葉が嫌いでアレルギー反応を示すのですが、それは中島さんの言う存在論的な問い」でしょう。これならわかります。「自分探し」を溶解する覚悟がありますからね。

 中島 自分探しとは、哲学的に言えば「存在論的問い」のことで、これには終わりがありません。自分探しは大切だと思う。だけど、それが今の日本では右派の暴力にまで結びつきかねない。しかも、それを食い止める答えを誰も持っていない。
 雨宮 究極の答えは、話を「生きさせろ」の一言に持ってゆくことだと思うんです。今、「プリカリアート運動」というものに関わっています。プリカリアートは、プレカリオス(不安定な)とプロレタリアート(労働者)を合わせたイタリア生まれの造語です。経済の新自由主義化により、世界中でこうした層が増えていると主張している。ニートやフリーターもプレカリアートだと。具体的には雇用問題なんかを訴えている。でも理念的には、無前提な生存権を要求しているんです。
 つまり今、人は何か条件付きでしか自分の生を生きていると思わせてもらえない。学校で良い成績を取り続けたり、正社員になって出世競争に励んだり。そこからこぼれ落ちれば、さっき言ったみたいなネット右翼になって中韓をたたいたり、さらに自傷行為やネット心中をしたり。特に後者は「お前が苦しいのはお前のせいだ」と自己責任論を刷り込まれ、怒りが全部自分に向かっている。そのどん詰まり感がひどい。その状況をどうにかしろと。
 それと、プレカリアートという言葉は耳慣れないせいか、この運動は左翼だと思われにくいんです。だからネット右翼でも、すんなり「自分はプレカリアートだ」と、今までとは違うアイデンティティーを持てる。これも大きな物語ですが、そこにはまだ、希望があると思う。 

 まあ、僕自身をカテゴリライズするのはイヤですが、あえて言うと「僕もプレカリアートの一員」でしょうね、爺婆を仲間に入れてくれればの話しですが(笑い)。「プレカリアート」は結構僕には馴染みの言葉です。http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/0359f57d22b83013eff1adf64d54bdae
 ワタリさんのブログでよく梅田でプレカリアート活動の記事がアップされていました。でも、まだまだ、馴染みのない言葉ですね、このことのベーシックインカムの導入とはつながっていると思いますが、念のため、プレカリアート ベーシックインカムでグーグル検索したら、トップに赤木智弘さんの記事がヒットしてしまいました。やはり縁がありますね。
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/bbs_tree/wforum.cgi?no=56&reno=55&oya=14&mode=msgview&page=0
 ところで、マイミクさんがこの記事を取り上げていました。勝手に一部引用します。僕もコメントカキコしました。

 私は若者のナショナリズムというのはまだ全然わからないのですが(香山リカの『ぷちナショナリズム』も頭しか読んでませんし)、両者が対談の中心にしているのも右傾化への危惧、以上に現在の若者の生きづらさ、だと思います。
 で、記事から考えさせられたこと、考えるべきことはたくさんありますが、今の子の「生きづらさ」についてつらつら思っていることを。
 リストカットというのがありますが、リスカする子になにがしんどいのかいってごらんと聞いても答えられないのではないのかと思います。
 しんどさの原因どころか、しんどい、ということがわからないのではないかと。
  ザ・フォーク・クルセダースの歌で「かなしくてやりきれないという歌があるのですけれども
  胸にしみる 空の輝き 今日も遠く眺め 涙を流す
  悲しくて 悲しくて とてもやりきれない
  この やるせない モヤモヤを 誰かに 告げようか

 1968年当時の若人は確かに漠とした不安と悲しみを胸にかかえたいたでしょうし、苦しみもしたでしょうが、「悲しむ」主体には疑いがなかったんじゃないかと思うのです。自分はまるごと自分で、言い換えると「悲しめた」。
 駅のホームに立っているときなど、果たして本当に自分がここにいるかどうかわからなくなるときってありません?
 現実感のなさ。
 今の若い子はずっとこの現実感を喪失したままで、「自分」が統合した全体として生きている、という実感がまず乏しいと思います。悲しい自分もいるかもしれないけれども、それをスライドさせて違う位相に立ってしまったりする。
 そういう状態が苦しいのだけれども、そのただ中にいる彼らは、自分がなにが苦しいのか、どうしたらいいのかわからず、生きている実感を求めて自分の体を傷つける、けれどもその「生」の感覚はあまりにも刹那で、いくどもいくども同じことを繰り返す。
 今の子の自傷は、死へ向かうためなのではなく生を取り戻したいがゆえの行為なのだと私は思います。
 リストカットにまでいかなくても、多くの若い子たちは「生きている実感」の喪失を感じていると思います。
 ただ、果たしてそれが悪いことなのかどうかはわからないと思ったりします。
 現在のアキハバラ日本橋の有様を見ていると、快楽も直裁に肉体にあるのではなく、もはや脳が「感じている」。今の文明を推し進めるのであれば、私たち人間の有り様もそれにあわせて変化していく必要の途上であるともいえるかもしれない、とも思ったりするからなのですが。
 ただ、そのもしかして生みのかもしれない苦しさが出口もなく自分自身に抗体反応のように向かう状態はどうにかしなくては……と思います。
 「自尊心」、プライドという意味ではなくて自分を尊ぶ、自分を大切にする、を持っている子は生きていってくれるように思うのですが……。難しい……。
 と相も変わらずとりとめも結論もない文章ですみません。
 ずっと考えていることなのですがまだまだわからないことだらけです

 僕のコメントです。

 よく言われることですが、1968年の理想の時代は過ぎて、  
  現実の虚構化(渋谷的なもの)
 虚構の現実化(アキバ的なもの)
 どちらにしろ、虚構と現実の狭間が不分明になっていますよね、表の「歩行と記憶」にエントリーしているように、「情念を持ったロボット」が実現するかもしれない、でもそのような時代が到来した時は恐らく、虚構の現実化はより進行して、ロボットとヒトとが不分明になるかもしれない、一方でミュータントとか、クローン人も登場して、益々従来型のヒトのアイデンティティが犯されるかもしれないが、方向性としては「不確実性」を受け入れ、新しい人が誕生するのだと愉しむ位の心持ちがいいのかも知れない。
 まあ、僕もわからないことだらけですが…。
 追記:それには耐えられない、自己崩壊してしまう。
 ならば、騙されるかもしれない、いいように動員されるかもしれない、そのような甘い?力(国家)に拠り所を求めてナショナルな沸騰もわからなくはない。
 茂木健一郎さんが、下の僕のエントリーの中のMP3で喋っていることですが、「安全基地」を持つことの大事さについて語っています。子どもにとって、お父さん、お母さんの視線が安全基地なわけですよ。そのような「安全基地」は大人にとっても必要だということです。その「安全基地」が一冊の本でもいい、僕のブログでは「アタッチメント」(愛着)という言葉をつかっていますが、「愛着」(安全基地)を持っているものは自己崩壊しない。ペットでもいいわけですが、そのようなものが何にもなくて、かっては、正社員になることで、「会社人間」になることも出来たが、それもムツカシイ。最後に残ったのが「お国ちゃん」ということもあるかもしれない。
 もちろん、三谷幸喜の映画「笑いの大学」の台詞ではないけれど、「お国」のためが、具体的なたった一人の生身の愛するお国ちゃんという女の子ならばいいのですが…。

 この「安全基地」という側面で「ベーシックインカム」を考えて見るべきではないか、「生きさせろ!」という応答に「安全基地」、「ベーシックインカム」がある世界、そんな方向性で今、僕は考えています。それと、下で書いたようにマイクロファイナンスですね、さっきNHKでグラミン銀行が何故、ノーベル平和賞を受賞したのかについて放映していました。結局、貧困をこの世界からなくする方策として、無担保融資のノウハウが評価されたのでしょう。返済率が98%なんて信じられない。働いて返すのです。問題は働き口でしょうね。