アルチスト/アルチザン 

 花田清輝の『スター意識について』を引き続き引用してみる(p312〜3)。しかし、この時代、アルチスト、アルチザンという二分法が有効だったのですね、純文学、純文学でないもの(中間小説・大衆小説)が違うものであるという了解、芥川賞直木賞があり、それぞれに対象の作家が違っていたが、今ではその境界も不分明で、第一そんな語り口はもうすでに有効ではない。
 にもかかわらず、花田清輝のコラムが面白く感じられるのは、僕のどこかにスターに対する欲望がある。「性的」なものかも知れないが、その「欲望」をよりしろ、のりしろ、キーワードにして、他者とつながる回路がブロードバンドになって他者とシンクロしやすくなる。「性的」が語弊があるなら、「リスペクト」と言い換えてもいい。スターが滅び去る時代がいい時代かも知れないが、何か寂しい気分は否めない。NHKの「プロジェクトX」に登場するアルチザン達がスターであるのかもしれない。でも、やはり違う。政治家はアルチストであることが要請される面があるのではないか、この国にあって天皇制が継続し得た所以に、そのような側面があるであろう。五木寛之『毎日新聞・この国はどこへ行こうとしているのか』という特集記事がアップされているが、五木は政治と宗教は切り離せ得ないとする。鎌田東二との対話集『霊の発見』(平凡社)を紹介している。花田が言及するスターとは、五木の言う《われわれは、もう一度、人間は死んだらどこへ行くのか、死んだあとに、霊というものが存在するのか……追求(する必要がある)。先祖の霊がいるといったら、私自身も死んだあと消えない。次の先祖になる……死ねばすべてが終わる。そう思うから、自殺すれば済むと考える。自殺したあとに、大変なことが待っていると信じていれば、誰だって怖くて自殺できないでしょう》(「霊の発見」)、そのような霊と無縁ではないであろう。スターとは卑弥呼さんなのでしょう。

 つまり、映画スターとしての地位に、ながいあいだとどまっているような人物は、くりかえしていうが、かれら自身がロボットにすぎないということをハッキリと意識しているような連中だけだ。これは、よほど映画というものを愛していなければできることではない。したがって、「テーク・エンド・テーク」というかれらのモットーは、有馬武郎にならって、本当は、「惜しみなく愛は奪う」と翻訳すべきかもしれない。
 しかし、スターリンヒットラーの時代はおわった。この世の中はしだいに集団指導の時代に変りつつある。もっとも、スターリンのような存在は、一見、独裁者としてぜったいの権力をにぎっていたようにみえたかもしれないが、あのくらい、自我というものをもっていなかった人間はすくないだろう。かれは、かれ以外の人間のチーム・ワークをとるためにだけ存在していたようなものだ。おそらくかれは、かれのまわりにいる人間のほうが、かれよりもはるかに有能だということを、つねに忘れたことはなかっただろう。それがスターリンの政治家としてすこぶる老練なところなのだ。スターリンにくらべると、ヒットラーのほうがはるかに個性もあり、テキパキと行勤したが、そこがシロート政治家の悲しさであって、いつか自分を天才の一人ではなかろうかとおもいはじめ、ついに独断専行、チーム・ワークを乱して没落するにいたった。映画スターのばあいでもおなじことであって、衆目は、かれまたはかの女一人に集まるが、その実かれらは扇のカナメのような存在であって、登場人物全員のチーム・ワークをとるために必要とされているにすぎないのだ。したがって、すぐれたバイプレヤーはスターをくわないようにたえず注意している、といったようなことがよくいわれるが、わたしは、スターほど、バイプレヤーをくわないように心をくばっているものはいないような気がする。むしろ、スターをとりまいているバイプレヤーたちのほうが、たえず、スターをくおう、くおうとしているというのが実状ではあるまいか。しかし、とにかく、政治の世界でも、しだいに独裁者が消えてなくなりつつあるとすれば、やがて近い将来、映画の世界でも、スターはほろび去って、集団演技の時代がくるかもしれない。わたしのみるところでは、そのさい、みごとにその集団のなかにとけこむことのできるものは、アルチストであるスターであって、アルチザンであるバイプレヤーではないのだ。なまじ美男美女だったり、芸があったりすると、かえってチーム・ワークを乱すことになる。
 わたしは逆説を述べているのではない。みずからの無為無能を身にしみて感じながら、しかも、人びとから天才あつかいされながら、スター街道をあるきつづけるのは、なんというツラいことだろう。自動車を買ったり、大邸宅を買ったりしてみたところで心はなぐさまない。かれらは、身を売ったのでもなければ、芸を売ったのでもない。しいてなにか売ったものをあげよといわれるなら、結局、名を売ったというほかはあるまい。しかし、そこが、アルチストのアルチストたるゆえんなのだ。ボードレールが、かつていみじくも喝破したとおり、身を売るのも芸を売るのも、同様に売淫にすぎないのだ。かれまたはかの女は、なんにも売りはしないがーしかし、ひとりでに人々がそのまわりに集ってくるのである。チーム・ワークをとる才能、オルガナイザーとしての才能は、まだ才能としてはみとめられていない。したがって、スターのほろびさる時代を、もっとも持ちこがれているのは、スター自身かもしれない。待ちぎれなくて、スターから監督に転向するものもある。(終わり)

 ロボットは人形であり依代で、そこに「霊」が生まれるものなのでしょうか、「スター」と「エロス」は切り離せない。スターは超越系に座を占めている。そう言えば、過去ログである人に言われたことですが、スターとファンの関係には別れがない、恋愛関係には別れがあるけれど…、成る程と思いました。そのスターが学者であれ、宗教家であれ、政治家であれ、同じことです。