悲劇の共有で割を食わないために

 吉田松陰の野山獄のエピソードはよく知られて、松下村熟の原点でもあるわけですが、かような私塾は色々な町や村にあったと思うのです。吉本隆明の少年期、今氏乙治塾体験は吉本隆明の思想形成の原点であったわけでしょう。
 野山獄では、それぞれが得意分野で一種の交換教授みたいなことをしたわけでしょう。囚人だけでなく牢役人も参加している。戦後、教育基本法が施行されて専門職としての教職が確立されたわけだが、良くも悪くも教育を教師にすべて丸投げしたわけでしょう。一体、教師とはどういう人なのか、自動車教習所の先生でもないみたいだし、お寺の和尚さんでも、教会の牧師でも、組合運動家でも、サラリーマンでも、行政マンでもetc、わけのわからぬものが綯い交ぜになって、それでも地方の名望家として、それなりの敬意を払ってもらっていたわけでしょう。
 でも、郊外化でコミュニティが崩壊してそんなポジションも空洞化したわけですよ。
 昨日、ひょんなことから、大阪ヒルトンホテルで塩川正十郎の講演を聴いたのですが、冒頭、教育基本法の話だったですよ、観客は僕より年輩の人達で800人の超満員、となりのおばあちゃんは、布施の人でした。僕は呉から転校した高校生の時、このあたりに引っ越ししたのです。おばあちゃんは、よく散歩姿の塩爺さんにお目にかかるらしい。鶴橋、今里、平野川沿い、東大阪は在日の街でもあるわけでした。呉も「混血の街」と言われていたから、この町はそんなに違和感がなかった。長屋と路地裏があったわけですよ。カツアゲも日常茶飯事にありましたね、それをいじめいじめられる構造でつかまえるなら、そんないじめは珍しくなくありました。こどもの自殺もありました。珍しくなかった。
 確かに後藤和智さんあたりが言っているように人口あたりの犯罪比率は昭和30年代の方が今の時代より多いいのは間違いない。オヤジ達の「俗流若者論」がそのようなご都合主義のデータに乗っかって論を展開しているトンデモ言説の部分があることは否めない。でも、そのような床屋政談的な言説は繰り返しやられていることで、もし、公教育でたった一つやって欲しいと願うなら、「メディア・リテラシー」ですね、「愛国心」はお仕着せのマニュアル教育で身に付くものではないし、様々な迂回路を辿って、まあ、宮台真司風に言えば「悲劇の共有」によって芽生えるやむにやまざる何かであるだろう。
 「メディア・リテラシー」は主知としてのスキルでしょう。それは教育の場に馴染むし、身に付く。教育基本法の第十条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」はそのようなメディアリテラシーを支えるものです。そこをカットして代わりに参入さすご都合主義の「愛国心」って眉唾ものでしょう。
 本来の「愛国心」は、結局、主意主義的なものでしょう。個々人の自由な決断によって初めて手に入れることの出来るものであって、「愛国の情」で、当該の「国家」を弾劾したり滅ぼしたりすることもあり得る危険なものでもある。だからこそ、「不当な支配に服することなく」っていうのがキモなのです。
 姜尚中の『愛国の作法』の愛国心はbk1の後藤和智さんのレビューで揶揄されているが、戦略として姜さんが言うように、「愛国心」を左翼陣営が別の文脈で語る必要があるのかもしれない、ただ、そのようなメタな戦略がベタになってしまって、「呉越同舟」のイヤらしい睦ごとになる危険もある。
 内藤さんは元気なマニュフェストを立てていますが、僕にとって愛国心は秘め事に似ているから、あんまり声高に語りたくないのが本音ですね。まあ、内藤さんの文脈と大幅に外れていないと思いますが、結構、教育基本法の論点は明確なんですよね、精神的骨格(心)を取り入れるかどうか、僕は与党的な入魂も、左の心をやり玉にあげながら『』付きの「心」を入魂する手管よりは、義務教育の学校制度を自動車教習所のような読み書きそろばんのフレームで良しとして、後はそれぞれが、私塾であれ、独学であれ、勝手に形而上学的な悩みを悩んで、教育もし、又はアカデミックな場で研究者として立って下さいと言いたいですね。学校教育に過度に期待しないということ。そうそう、今日、更新した内田樹さんの意見に近いですね、http://blog.tatsuru.com/2006/11/16_2251.php
 賢い分散投資ですよ、一律の国家管理はリスクが大きい、塩爺さんは、そんな愛国心一本槍ですが、講演の主催者は某銀行の投資セミナーの一貫として講師として呼んだわけです。テーマは分散投資です。最近、機会があって代理でよく、このようなセミナーに参加するのですが、結構、面白い、先日も下に書いたように某証券会社の講師は「もうこの国はこれ以上の成長は望めない、段々衰退して盛者必衰の理」っていうわけで、外貨を薦めていましたね、
 塩爺さんは逆で今後、日本はGTP3%の経済成長が期待出来るというわけですよ。そのような強気が背景にあって、教育基本法について語るわけです。教育基本法教育勅語の歴史的経緯の説明から、国会決議で教育勅語が廃止され、精神的骨格(心)をスルーして行政手続き(形)だけの教育基本法をスタートさせたわけで、塩爺さんは、そのような心のない教育基本法はそもそもオカシイって言っているわけ。まあ、このことは、憲法問題にも言えるし、そもそも、「法とは何か」でしょう。
 「内在規範」をスルーする法なんて「あり得ない」。歴史意識、宗教意識であれ、信条であれ、なんであれ、教育基本法をそのような法たり得るものにする必要性がそもそもあるのか、そんなものはいらないのも一つの見識だと僕は思うのですが、塩爺さんは国家=憲法(教育)の一本槍です。塩爺さんの話では、義務教育において生徒1人に先生は13人、全国平均、1/13で、とにかく先生の数が多い。過疎地域と過密がアンバランスで、先生の移動は簡単に出来ない。資格で採用して、養成すると言った観点がない、そしてそのまま、なんの更新もなく63歳まで働くことが出来る。まあね、そのような塩爺さんの悪態もわからなくはない。
 僕は学校教育の場だけが「教育の現場」でなくて、様々な<私塾>のようなものがあるべきだし、あってもいいと思う。「心」を鍛えるとしたら、「自分を相対化する心」を手に入れることでしょう。そのような批判精神からでしか「愛国心」は生まれないという辛いものだという観点がないとダメだと思いますね。
 結局、もの凄く簡単なことかも知れない。教育って、「自分の頭で徹底的にものを考える癖」をつけることであって、そのような振る舞いが生きる実感につながるし、思考停止は生きることの放棄だし、そんな大人になちゃあダメだよと言い続けることでしょうね、でも一方で「無痛文明」の揺りかごは僕たちを思考停止の幼児化に棹さして留まることが出来ないどころか早くなっている。森岡さん風に言うならば、そんな無痛文明にどっぷり浸かって甘さも臭みも泥まみれ糞まみれになって次のステージに行き着くしかないのかもしれない。それが例え「悲劇の共有」であっても…。
 そんな悲劇の共有がやってきたら一番、割を食うのは弱い者で最前線に追いやられてしまう。だからこそ、自分のポジションを冷厳に見つめて敵を見誤ってはならない、そのためのメディアリテラシーだと思います。
オンライン書店ビーケーワン:調べる、伝える、魅せる!オンライン書店ビーケーワン:愛国の作法