他者といじめ

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――他者と死者―ラカンによるレヴィナス無痛文明論百年の孤独 ニッポンの小説
 内藤朝雄『いじめと現代社会』のキャンペーンブログをとらかれさんが始めましたね、先日、ブックファースト梅田店で本を購入しましたが、二階のレジ近くの平台にどんと!積んでいました。
 実は、別の本を購入したのですが、急に珈琲が飲みたくなり、5千円以上購入すれば、三階の喫茶室で利用できる珈琲券をもらえるのだと思い至り、目に飛び込んだのが内藤朝雄さんの『いじめと現代社会』。プラスすると五千円超える。
 最初に確認したのは、帯文で、「精神的買春を強いる社会」の誤植で、そうか、やはり、「売春」でなく、「買」か、「春」を買うような心持ちで購入致しました。*1その日は本当に暖かい日で、三階の喫茶室から眺める御堂筋は陰々滅々たる「いじめ」など、どこ吹く風と春めいていました。
 「いじめ」という言葉はいつの頃から、あったのでしょうか、「忠臣蔵」のおんときか、それとも頼朝が義経をいじめた故事からくるのでしょうか、恐らく、ここで、問題になっている「いじめ」は1980年代から学校現場で露呈されたいわゆる「いじめ」が起源を有しているもので、僕がかって学校なり、職場なり、地域なりで理解していた「いじめ」とは違う位相で考えなくてはいけないんでしょうね、 僕はいじめと言えば、「異形の人」、「排除の論理」、「他者」の問題に降り立ちたい気分になります。
 今、丁度、読み始めた高橋源一郎の『ニッポンの小説ー百年の孤独ー』は小説論であるのですが、「言葉」について語ると、果たして他者とコミュニケートは可能なのか、僕たちがゆるくコミュニケートしているとの幻想は自らのエリアに取り込んだ支配の語法による「他者」であって、外部としての「他者」ではない。
 そのような他者は身近にいるのか、いる。「死者」なのです。そう、『ニッポンの小説ー百年の孤独ー』は小説論でありながら、内田樹の『他者と死者』に呼応している。

 カミュの『ペスト』では、ベストに襲われた都市において、ペストと戦う人々は、つねに自分もまたペストに罹患せずにはいないという逃げ場のない状況に投じられている。物語の主人公の一人、元革命家のタルーはこの背理から一つの倫理的な覚知に至る。それは、「ペスト」とは実在する何かのことではなく、[実体化された邪悪な存在」を自分の外部に措定し、それによって世界の出来事を説明しようとする「私」の存在論的構造そのもの(筆者注:濁点の部分を赤色にします)のことだということである。「私」の「外部」にある何らかの実体に「悪」を凝縮させ、それと「戦う」主体として「私」を立ち上げるという物語のあり方そのものが「ベスト」なのだ。それに気づいたタルーはこう語る。
  
 誰しもが自分の中にペストを飼っている。この世界の誰一人ペストに罹っていないものはいない。だから、ちょっとした気のゆるみで、うっかりと他人の顔の前で息を吐いたり、病気をうつしたりしないように、間断なく自分を監視していなければならないのだ。自然なもの、それが病原菌だ。

 「ペスト」とは「私」が「私」として存在することを自然で自明な出発点とする根源的な「無反省性」の別名である。「私」があり「他者」かあり、二人の間にいかにしてコミュニケーションを構築するかが問題なのだ、という仕方で問いを立てる者は、まさにその身ぶりによって「ペスト」に罹患する。「ペスト」からまぬかれようと望むなら、その話型そのものを放棄しなければならない。
 だが、どうやって?

  主体と他者の二元論の語法をもって語ることは「死者たちが許さない」というラカンの自制は、カミュの問題意識に通底している。
  「死者たちは、〈私〉を自明なものとして措定することを〈私〉に許さない」という背理はラカンにのみ固有のものではなく、おそらく彼らの世代に共通した宿命なのである。

 ここに書かれているのは、ある意味で、驚くべきことです。
 なぜなら、ここで問題になっているのは、第二次大戦後のヨーロッパで起こった、知に関する出来事であるのに、わたしには、「ニッポンの小説」で起こった、小説に関する出来事と、まったく同じであるように見えるからです。
 そして、そのいずれにも、「死者」が登場しているのです。
 わたしの考えでは、この文章における真の主人公は、ラカンではありません。「透明で叡智的な『主体』、どのような歴史的出来事によっても汚されることのない、冷ややかで中立的な観想的知」そのものです。そして、それは、「ニッポンの小説」の主人公でもあったのです。
 まさか、とあなた方はおっしゃるでしょうか。
 「ニッポンの小説」に登場する、幾多の人物を思い起こし、果たして、彼らが「冷ややかで中立的な観想知」の持ち主ばかりであったか、と訝しくに思われるかもしれません。
 そうではありません。「透明で叡智的」、「中立的で観想的」なのは、人物ではなく、「ニッポンの小説」が所有している「文」であり、「話型」だったのです。(中略)
 我々が読んできたのは、「『私』の『外部』にある何らかの実体に『悪』を凝縮させ、それと『戦う』主体として『私』を立ち上げるという物語」ばかりではなかったでしょうか。(201〜2頁)

 僕はここに言う「ペスト」を「いじめ」と読み替えてもいいのではないかと思う。いや、森岡正博の奇書『「無痛文明」論』に言う、無痛文明であろう。今にして思えば、あの奇妙な語法で、森岡さんが何とか『「無痛文明」論』を上梓しようと、そしてそれは永遠に未完であり続けなくてはならない奇書だと奇妙にナットクする。『「無痛文明」論』を小説といってもいいのではないか、あの本は社会に対する処方箋を提示したものではなく、小説なのであろう。だから、それぞれの読みが生成する。
 だけど、内藤さんは、本書で明快に処方箋を提示する。森岡さんは執拗に処方箋を投薬することを回避する。僕はそれぞれの振る舞いが、社会学、哲学、生命倫理、小説家、等々、そのようなカテゴリーで説明しきれるものではなく、それぞれの生き様が学界、文壇とは別の次元で露呈したやむにやまざる真剣さからくるものであろうことが、ひしひしと感じられる。そういう人の本だからこそ、読んでみたいし、読むのでしょう。しかし、内藤さんは自信満々で処方箋を書きますね。そこが内藤さんの魅力なんだろうね。