赤ふん、赤ヘル日本一

 もう、滅多に野球も見なくなりましたね、
 でも、この日、赤ヘルが日本一になった時、何故かぽろりとした記憶があります。
赤ふん売ります1800円です。

 この歌は江夏豊をマウンドに送るイメージソングではありません。
 でも、ちょいと歌詞を替えれば違和感がないですね。
 ナックルのフェルナンデス赤ふんCMにはなりますね。

赤軍兵士は今日もいく
まっかな赤フンきりりとしめて
これぞ男の晴れすがた
たとえ火のなか水のそこ
どこでもいくのがおいらの任務
北鮮、キューバ、パレススチナ
おいらの夢は果てしなく
ロマンの花を咲かせます
ゆけゆけ赤軍、それゆけ赤軍
それゆけ、やれゆけ、カッコよく
ひとりでデッカイ旗ふって
ゆけゆけ赤軍、それゆけ赤軍
(『赤い雪』角間隆、1980、読売新聞社、p.264)

 pataさんが、こんな歌を紹介してくれましたが、
 赤ヘルは確かにドミニカ野球学校を設立したりと、メジャーで大活躍のソリアーノとか、海外輸出、金本さんをタイガースへ、国内輸出とか、かっては江藤もそうでした。
 育てて、お売りになる赤い経営に磨きをかけて、何とか市民球団として存続していますね、今年も頑張って下さい。
 しかし、赤ヘルメンバーで知っている人が少なくなりました。
 上に紹介した歌はpataさんがコメントしているように《大菩薩峠での無様な大量逮捕の2ヶ月後、神田・全電通労働会館ホールで歌われた「赤軍(あかぐん)の歌」というのがあったそうでして、この冗談のような明るさというかノー天気さはなんなんでしょう、と思ってました。》
 明るさと言えば、「スーダラ節」(1961年)、「ドント節」(1962年)の池田勇人の高度成長時代を背景にした「貧しくとも、明日になれば、テレビがやってくる」みたいな明るい夢があったわけでしょう。
 でも、それだけでではない、あの60年安保の時の暗さ(でも、奇妙な高揚感があり、明るかったとも言える。少なくとも閉塞感がなかった)からの離陸した植木等の「無責任時代」という明るさでもあったと思ってしまう。
 そして、あの大菩薩峠の悲惨な記憶(1969年)、よど号事件(1970年)、三島由紀夫自刃(1970年)、あさま山荘事件(1972年)その中に挿入された「赤軍の歌」なのでしょうが、僕にとって、赤軍とは、広島カープの「赤ヘル」でした。
 まっちゃんさんからの情報で、フェルナンデスの赤ふんで、トラ斬りですって、