音霊授業?

琵琶を知る阿弥陀堂だより [DVD]文芸時評という感想
 下で「音霊」と書きながら、何となく「オトダマ」と読むことに違和感があったのですが、やはり、「おとだま」でヒットするんですね、でも、「言霊」とほとんど同じものだなぁと言う気がします。

古神道の鎮魂行のひとつに「音霊法(おとだまほう)」というものがあります。ひとつの音、たとえば水のせせらぎとか梵鐘の音など、そうした音にひたすら耳を傾け集中します。そして、自分をその音に融け込ませる、あるいは音そのものになりきってしまう。そうすると、いつしか自分というものを忘れ、自己という狭い枠が取り払われて真我(しんが)(本来の自己)があらわれる。真我はもとより宇宙と一体のものであるから、自ずと生命(いのち)は輝き躍動する。これが音霊法という行法の目的です。ー薩摩琵琶奏者の中村鶴城さんののテキストより、『音楽と音霊』より、

 昨夜、老母とDVDで『阿弥陀堂だより』を見たのですが、北林谷栄が演じるおうめ婆さんは見事で、映画を見ながら思わず、おうめ婆さんに向かって「ありがたいことです」って、北林谷栄に手を合わせたくなりましたね。
 おうめさんが、眠れない時は「水の音」に身を任せるといった「ありがたい台詞」があります。おうめ婆さんの「音霊法」でしょうね。
 荒川洋治著『文芸時評という感想』に興味ある記事がありました。「コブシとリズム」(106頁)で、呉市立五番町小学校で実施されている「音読」授業のレポートなのです。
 朗読と言えば斎藤孝ですが、一時、斎藤さんの本が沢山、本屋の平台に並んでいましたよね、僕もbk1にレビューを書いたことがあるけれど、『理想の国語教科書』ですが、再読すると、粗っぽいレビューで、「いいえ」と投票した人が多い(笑)。
 でも、最近、斎藤さんの新刊が一時ほど目立たなくなりましたね、2002年以降、読んでいませんね。五番町小学校の音読授業はこんな風です。

 その日、「ごん狐」(新美南吉)の公開授業をのぞいた。先生は児童たちにその作品のなかの「おやあ」という会話の部分を「音読」させる。たとえば中山くんが「おやあ」と読む。先生は、中山くんのその「おやあ」はどういうものかな、ときく。すると「あの人がまさか」と答える。他の子は「こんなところで」だったり「たんなるおどろき」だったり。どれが正しいわけではない。みんなで並べあって、言葉の心を見つめていく。

 念のため、五番町小学校で検索したら、もう、三十年以上も
トランペット朝会なんかやっているんですね、何か「生き生き」、熱い、「きらきら」と濃いい授業をやっているみたい。
 実体は知らないけれど、荒川さんの記事によると、『学びあい、深めあい、認めあう授業の創造』と題する小冊子があるみたい。このような教室では「いじめ問題」はどのように処方されているのか、そのことを訊きたいですね。
 http://www.city.kure.hiroshima.jp/~gobs/
 ホームページを見ると、職場ウォティングもやっているのですね。「小中一貫教育」は、6・3制ではなく、4・3・2の組み合わせなんだ。現場の実態がわからないから、僕は何ともコメント出来ないが、そんなに効果があるのなら、どうせ、義務教育だから、小学校と中学校を一つにすれば済むことだと思いますが、素人考えで、色々を支障があるのでしょうか。
 どちらにしろ、この教育システムの中に「いじめ問題」がどのように位置づけられているのか、わからない