死体に涙を流す人間

オンライン書店ビーケーワン:朽ちていった命オンライン書店ビーケーワン:メディアの権力 1オウム-なぜ宗教はテロリズムを生んだのか-[rakuten:book:12036016:image:small]オンライン書店ビーケーワン:鳥には巣、蜘蛛には網、人には友情。
 少し遅れましたが。4月24日アップの武田徹オンライン日記の 『ハルバースタム追悼』は、「死体に涙を流す人間であり続ける」ことの困難さを感じます。もうじき、オヤジの13回忌の法事の予定で、今日も朝からみんなと、仏壇の廻りの掃除をしたのですが、オヤジが亡くなったとき、「オレは涙したか?」と問われれば、見える形で泣いていない、骨あげで、オヤジの骨を見た時、きょうだい達は号泣したのに、オレは泣けなかった。
 身内であれ、他人であれ、他国の人間であれ、誰であれ、一人の人間であれ、万人のヒトであれ、思わず涙が流れる感性は最低限、手放さないで置こうと思うが、その困難さを感じます。
 島田裕巳の『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房)で、島田が執拗に元オウム信者の高橋英利の手記(『宝島30』1996年一月号)に掲載されている「僕と中沢新一さんのサリン事件」とか、
 同じ頃二人で雑談している際に出た中沢新一の発言として、「ね、高橋君。オウムのサリンはどうして(犠牲者)が十人、二十人のレベルだったのかな。もっと多く、一万人とか、二万人の規模だったら別の意味合いがあったのにね……」(『中沢新一批判〜』37頁)
 それと、島田の『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)で、島田は中沢のゴジラに仮託されたオウム真理教とその事件のもつ意味、それは、上記の疑念「一万人、二万人規模の人間が死ねば、東京の霊的磁場が劇的に変化する」(38頁)を、中沢が『新潮』誌の1998年9月号に発表された『GODZILLAゴジラ』の島田なりの読みを骨格として、本書の『中沢批判〜』に繋がったと思われる。
 生命システムを西欧的な思考法からくる一つの主体としてとらえないで、熊楠をはじめとする東アジア生命論としての「潜在体」(無数の生物個体を含み込んだ生命システムそのもの)をゴジラに仮託しているというわけです。(96頁)
 GODZILLAゴジラは違うというわけです。
 この問題は僕には手に余る大きすぎる問題なので当惑して答えがない。 思考では何とか道筋をつける言葉の採録が出来るかもしれないが、実際、命は、「死体に涙を流す人間」という地点から理屈以前に全身で反応したいところから僕は考えたいと思う。GODZILLAなら排除の対象になるけれど、ゴジラは僕ら自身の内部にも生命システムとして貫く「機前」のようなものでもあるらしい。
 「機前」とは、中沢新一の『ミクロコスモス?』によると、伊勢神宮外宮の神官、度会家行が著書『類聚神祇本源』で「機前」の概念を創出したらしい(159頁)。見据える世界が「光以前」なら、今の僕には手に余るのです。

 参照:愛の教育について - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜