論座6月号を読む

論座 2007年 06月号 [雑誌]
 図書館へ行って『論座 6月号』を読んだら、面白くて、とうとう帰りに夕食の食材と一緒に買ってしまった。「中吊り倶楽部」で宮崎哲哉は『論座 4月号』はほぼ完売だと言っているが、そう言えば『論座』を購入する習慣がなかったのに、とうとう、買ったもんなぁ、
 特集は「日本国憲法ー施行60年のいまー」だけど、加藤典洋の論考、加藤周一×樋口陽一の対談はゆっくりと読むとして、図書館ではまず、赤木智弘著【続「『丸山眞男』をひっぱたきたい」けっきょく「自己責任」ですか】と、後藤和智著【左派は「若者」を見誤っていないか】を読んでみました。
 赤木さんの論点は『論座 4月号』に掲載された七人の論者(佐高信・奥原紀晴・若松孝二福島みずほ森達也鎌田慧斎藤貴男)が、『論座 1月号』に掲載された赤木論考への応答に対する、赤木さんの「けっきょく、『自己責任』ですか」という論考なんです。見事に打ち返しているなぁという僕の印象ですね。
 面白かったのは、先日の東京都知事選で話題になった外山恒一も俎上にあがっている。

外山恒一氏が「選挙は多数派の祭りで、革命しかない」と訴えていたが、革命は「多数派の国民が、少数派の国家権力に支配されている」というような状況を逆転させるための手法である。少数派が多数派に対して革命を行ったって、十分な社会的承認を得ることなどできないのは明白だろう。ならば、選挙よりも革命のほうが「多数派の祭り」ではないか。
 正社員で、もしくは非正規社員でも生活に十分な給与を確保している安定労働層という多数派に、小さな企業の正社員や、派遣労働者や、フリーターといった貧困労働層という少数派が支配されている現状において、革命などは絶対に成就しない。つまり社会への信頼もなく、少数派であるしかない私が、革命という結論に至ることはあり得ないのだ。
 その一方で戦争は、信頼や肩書きなど関係なしに、ただ状況のみが突きつけられる。運が良ければ、これまでの人生における不利な「積み立て」をなかったことにして、一方的に押し流すことも可能である。

 革命は多数派の祭りという思考にはびっくりしました。そう言われればそうだなぁ、クーデターは武力による少数派の祭りであるけれど、これも硝煙の臭いがします。クーデターは権力闘争における人事だけど、先日のネットラジオでも赤木さんがいみじくも言ったように、戦争は外からやってくる天災に近いものらしい。
 今号の論考に対して又、七人の論者の応答を読みたいものです。
 それはそうと、後藤和智氏は、ネットを舞台に言論人達による「俗流若者論」に対して批判のメッセージを送り続けていますが、僕自身、彼の執拗な的を得た『反「俗流若者論」』をロムし続けている一人として、そこに固有名詞で俎上に上げられている言論人達の応答も読みたいものですね、どうです、『論座』で、特集“俗流若者論”を企画しませんか?