「自分の知っていること以外はつまらない」ではつまらない。

天才 青山二郎の眼力 (とんぼの本)
 n-291さんの『真昼のアンタンシテ*1 「イズミズム」第5回(QJ連載)より』を読んでいたら、凄く気になる言葉に出会った。(注:佐々木敦さんのブログ「真昼のアンダンシテ」よりの引用です。↓)

この「自分の知っていること以外はつまらない」という感覚が暗黙に前提していて、しかし、どうしてだか忘却してしまっているのは、では自分はどうやってそれを知るに至ったのか、ということだ。「知っていること」も「知らないこと」だった時期が当然あるわけで、それをどんどん遡っていけば、やがては「知る」ということの端緒に辿り着く筈なのに、ひとはいつしかそれを忘れてしまう。そして、「知っていることしか好きじゃない」と「好きなことしか知りたくない」は、どっちがどっちか分からなくなり、「知らないこと」がイコール「嫌いなこと」へと短絡してしまうのだ。

 俗流若者論がこういう視座から語られば、結構、首肯出来るのに、俗流若者論を語りたがるオヤジたちは同じような土俵で「自分の知っていること以外はつまらない」みたいな感性で「べき論」を言ってしまうから、言葉が届かないんだろうなぁ、お節介かもしれないけれど、どちらも不幸な関係でしょう。
 ならば、せめて、「知らないことを知りたい」という好奇心を刺激することだろうけれど、上の『「QJ」連載の「中原昌也高橋ヨシキの非オタク二名が、海猫沢めろん更科修一郎から「オタク」のメンタリティについて話を聞く、という趣向』の『嫌オタク流』」から佐々木敦さんの引用を読むと、穴ぼこは深いですね。せめてオヤジたちが広い視野で語って欲しいと自省を込めて思ってしまう。
 白洲信哉さんの東京芸大美術解剖学の講義『美を求める心』で、骨董の世界を垣間見させてくれましたが、「自分の知っていること以外はつまらない」では、『美は遠くなりにけり』でしょうね、「臭い美」の代わりに「萌え」があるよと反論されそうですが、『萌え』だって、「自分の知っていること以外はつまらない」では、「萌え」という「驚き」に遭遇しないと思いますが、どうもわからない、「萌え」だって、「美」だって、その前提に「驚き」があるわけでしょう。「ワクワク」は思わぬ出会い、大当たり、フィーバーで、常に予測不可能性(偶有性)がないと、ありえない。
 まあ、せめて、地道に知らないことを知るべく、マル激トーク・オン・ディマンド 「コムスンを叩くだけでいいのか・服部万里子氏(立教大学コミュニティ福祉学部教授)」を長時間聴いたのですが、凄く勉強になりました。
 とくにケアマネージャーのことをあまりにも知らなさ過ぎていました。その善意に頼り切ったワーキングプアの状態に薄ら寒くなりました。
 参照:2007-06-20 - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜
 結局、「知らないことを知る」ということは、単に「美」であろうとも「萌え」であっても、知らぬ間に「政治の現場」に触手が届いてしまうのだろうと思いました。
 しかし、佐々木敦さんの嘆きを常に抱え込んでいることが必要なんでしょうね。

 しかし、ほんとうにアタマが痛いのは、たとえば『嫌オタク流』にしても、そこで真の意味で批判されている人々(繰り返すが、それは「オタク」だけではない)は、おそらく最初からこの本を開くことさえないだろうし、仮に偶々読んでしまったとしても、そこには嫌悪と反撥しか生まれないのではないか、と思えてしまうことだ。そしてまた同時に、この本を読んで「そーそーオタクってキモいよな!」とか言って溜飲を下げる人こそが、実は批判されるべき人種と同質であるにもかかわらず、彼らはそのことに気付かないし、気付かなくてもいいようになっている、ということなのだ。