黙の三題噺のオマケ

 武田徹さんの『調査の逆説』を読んで、僕もこのことをつくづくと感じます。

少し違う文脈だけど比喩的表現や思考実験的な表現とかが理解できなくて、ベタで読んじゃう人とかもいますね。換喩や隠喩が理解できなくなる失語症的症状から言語認識のメカニズムを考えてゆく方法が言語学にはかつてあったけれど、今やオピニオンリーダーぶっているアルファブロガーとやらガそうで、そうした一時は病的とされていた過剰に平板な読みが常識のように横行してたりすると、これはどうなってしまっているのかと思う。言葉の強みは直示的でなくてありえることにあって、その迂回ゆえに表現できる幅があるのだけど、事実を示す表現しか認めない、すべての表現がカタログのように事実を表示しているとしか理解しないとなると、オーウェルダブルシンク(これも曲解されている事が多いけど・・・)以上か。比喩的表現を一切認めない文化になっていったら、こりゃ並のSFなんかより怖い怖い。

 最近、落語を聞くことが多くなった日々です。家の近くの図書館に桂枝雀CD全集が全巻揃っているのです。
 斎藤環風に言えば、想像界(イメージ)を事実として短絡的にベタ構築して、象徴界(言葉)に降り立たない、言葉を忘れたカナリアの振る舞いをするオピニオンリーダーが増えたということでしょうか。クワバラ、クワバラ♪
 語り得ぬ「黙」は、消費の対象になりがたいから、そこを迂回して発言する振る舞いが増えるのであろうが、それじゃあ、喋っていること、書いていることが、益々、痩せたものになる。