「暴力」と「去勢派」

 参照:http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070704/129105/?P=1
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)[rakuten:book:11968752:image]オンライン書店ビーケーワン:ナショナリズムの由来
 先日の記事でmmさんがコメントをくれてレスしたのですが、長くなりすぎ、まとまっていないので、本文に書いてみます。
 昨夜、特別無料サービスで、全部視聴出来る★マル激トーク・オン・ディマンド 『右翼も左翼も束になってかかってこい』小林よしのり、萱野稔人、そして司会は宮台真司の放送を聴いていたら、夜更かししてしまった。
 そこで、まさに語っていたのはmmさんがコメントで渡邉美樹の『もう、国には頼らない。 経営力が社会を変える! 』に対する批評に繋がる「ナショナリズム」、「国に頼らない?云々」の問題で、萱野さんは、最終的に左の立場で唯一合法な暴力装置として、「国」を認めるわけです。「国」がなくなっても、暴力がなくなるわけではない。暴力をシビリアルコントロールするわけ。宮台さんは、政治家の仕事は時には法律の外に立って、政治を行う覚悟で、結局、国民・市民を守る。勿論、それによって、その政治家は法的に罰せられる。罰せられることによて、法を守る。政治家にはそのような高い覚悟が要請されるわけ。ヘタレじゃあダメということ。でも、ひょっとして暴走し過ぎるかもしれない危険はある。そのリスク回避のために憲法があるわけでしょう。
 小林よしのりは「沖縄」を知ることによって、この国の隠された問題を抽出しようとする。宮台は、マキアベリ、カールシュミットを、萱野はフーコーをそれぞれ引用しながら語るのですが、三人に共通するのは社会システムを改革、変革しても解決し得ない「実存の問題」に怖れずアクセスするということでしょう。
 「ナショナリズム」、「宗教」、「アイデンティティ」の問題は結局、ブーメランのように自己批評として帰ってくる。国/国民は切断しつつ接続させる。「国に頼らないといいつつ、国に頼る」、そのような国と国民・市民の関係をクールに認識。分析するところから、考えるべきなんでしょうね。キーワードはやはり「暴力」なんだと思う。「暴力は悪い」っていうのは簡単です。そう呪文を唱えると、消えてなくなれば、結構なことです。でも消えない。僕らはドラエモンに頼ることは出来ないのです。

 昨日、亀山郁夫の古典新訳「カラマーゾフの兄弟」についての講演があって、そこで、ドストエフスキーを読み解くキーワードとしてロシア正教会の分離派の「鞭打派」、「去勢派」について話があったのですが、人々が去勢すれば、ひょっとして、暴力が消えてなくなるかもしれませんが、まあ、あり得ない(笑)。
 亀山郁夫『「カラマーゾフの兄弟」、「古典新訳」で読み直す』の講演は梅田の地下街にあるハービスHALL小ホールで行われたのですが、いや〜あ、おもろかった。色々報告したいことがありますが、この僕のブログの隠れたテーマ?は「去勢について」でもあるのですから、亀山先生の言う、「去勢派」に反応してしまい、どうも僕の無知のなさで、「去勢派とは」の疑念がリフレインしていたのです。
 まあ、毎日新聞の7月17日の夕刊に講演のレポートが掲載されるということで、どこまで、去勢派について紙面で言及されるかどうか、わからないが、ドストエフスキーの解読に「去勢派」が重要なキーワードだということを亀山郁夫さんは再三、言っていました。特に「カラマーゾフの兄弟」の私生児スメルジャコフは「神がかりな女」(どうやら、ロシア正教から分離した異端ですか、「鞭身派」、そう言えば「ダ・ヴィンチコード」で、自ら鞭を打つ狂信者が登場しましたね、それとロシア正教のいう「鞭身派」とどう違うのかわからないが)から生まれたスメルジャコフに亀山さんは痛く感情移入したらしい。二男のイワンの分身でもあるし、この二人が翻訳にあたってのキーポイントだったわけで、思いきった文体を採用したらしい。どうも、感情移入出来なかったのは、三男のアリューシャで、わかるような気がします。
 僕は原卓也訳の新潮文庫『カラマーゾフの兄弟』は読んでいるのですが、新訳を読んでいないので、本書に関するコメントは宿題として後日、読了して書きます。
 亀山さんの話、編集担当者の話を聞くと、原卓也訳とは全然違うみたいですね、亀山さんのはリズムを大切にする、口述筆記で書かれたものでしょう。翻訳にあたって、音感を大事にしたのではないか、原さんは生真面目で直訳に近い、カラオケでもヘタ?云々と言ったことを亀山さんはおっしゃっていたから、多分、原さんよりはうんと歌が上手いのでしょう。同じ人物にもかかわらず、第一人称で<私>と<ぼく>を混在させたり、です、ます調と、である調をわざと混在させたり、ドイツ語なまり、ポーランドなまりのロシア語のニュアンスを翻訳で苦心したり、特に会話の部分が、どのような翻訳をしているか興味があります。
 取りあえず、自宅に戻って、気になった『去勢派とは』で、検索したら、僕のエントリーが上位にランクされている、それはないだろう、『僕は猫でないけれど、去勢手術』の記事で猫殺しで話題になった坂東眞砂子さんのエッセイーをめぐる問題ですね、「去勢派」の問題と全然、関係がない、それより、グーグル検索で僕より下位にランクされていたこちらの記事はスゴイ!、今日の亀山さんの話とぴったり重なっている。まあ、意味のないフィギュア?画像がチラチラしますけれど(笑)。
 《ラスコーリニコフという名前は17世紀ロシア正教から分裂した「ラスコーリニキ(分離派)」に由来して、その証拠に、創作ノートには主人公の母親のことばとして「ラスコーリニコフ家は二百年来、有名な家系」と記されている。この小説が書かれたのは1865〜1866年、そこから200年さかのぼると、まさに17世紀の'60年代で、分離派運動の発生期に一致する。この分離派に「鞭身派」、「去勢派」がある》というわけです。
 原典は江川卓「謎とき『罪と罰』」で、「謎とき『白痴』」「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」もありますね、今日の亀山さんの講演の内容の「去勢派」については、このページに書いていることは言っていましたね、この問題については『ドストエフスキーと去勢派』(光文社新書)というようなタイトルで発刊するとのことですから、新書を読んだらコメントしたいですね、後半は「去勢派」の話で盛り上がって、僕も他人事ではないですから、熱心に聞きました。いやいやながらの去勢ではなく、進んで行う法悦としての去勢に近いものでしょう。なんだかなぁ…。(汗)
 どちらにしろ、東大とか、銀座の教文館でも今月、講演がありますね。興味のある方は→http://www.kotensinyaku.jp/
 666の数字にまつわる話も面白かったですね、1666年、1866年、そして、その五年前の1861年は農奴解放です。10%の貴族階級、90%の農奴が解放されたわけですから、パンドラの函が開けられ、一気に流動化の波が押し寄せてきたわけです。神の意志から民衆の意志、ポピュリズムの問題、ペテルブルグの混沌を背景に『罪と罰』が書かれ、成人の10人の1人が逮捕という犯罪社会があったわけ。そして、裁判制度の見直しがあり、陪審員制度が出来上がる。
 亀山さんの話を聞いていると、段々と現在の話にリンクしてゆく予感がありました。会場でもらった文庫『古典新訳の発見』に亀山さんは『「カラマーゾフの兄弟」とグローバリゼーション』というエッセイを書いている。今、現在問われている痛い問題で、死刑制度についてです。光市母子殺害事件で本村さんがつきつけた問題から、逃げ出すわけにはいかないんだと思う。「暴力」について、単に「平和」、「話し合い」という返答で問題は解決しましたという怠慢さに、思考停止に「マッタ!」をかけて徹底して自分の頭で考えることから始めることなんでしょう。先に、「左」という「右」というイデオロギーがあるわけではないのです。
 追記:大澤真幸の新刊『ナショナリズムの由来』も気になるね。
 参照;id:leleleさんの丸激トークの感想です。