動物化/再帰性

 樫村愛子の『ネオリベラリズム精神分析』は、哲学的リバタリアン東浩紀「動物化」を腑に落ちる説明をしてくれている。

 [……]とりわけ「萌え」に象徴される現在の第三世代のオタクは、メタ物語(物語が意味するものについての物語、世界への問いをはらむような物語)への欲望はない。特に第三世代は目の前のバーチャル美少女への性的欲望に閉じている。実は、多少の警告を含みながら、むしろ現実を前提に議論しようとこの概念を提示している。
 東のいう「動物性」は「本能的」という意味はない。彼は、二次元の美少女しか欲望しない、ある意味で生物学的に逸脱したケースを「動物的」「動物化」と呼んでいる。
 人間は「本能の壊れた動物」であり、性は可塑的に形成されるので、最初から二次元に欲望するようにセットされれば、また、倒錯的と呼ばれる形式の性に最初から欲望するようにセットされれば、それは、精神分析が考えるような正常な欲望の補償としての逸脱回路ではなく、それ以前の回路を形成すると東はいう。
 しかし、後に見るように、大文字の他者が弱体化したため、小文字の他者によって自己の承認を得ようとして、ネットで自己開示する人たちが、即、倒錯(補償行為)しているとはいえない。それは他者を求めるこの時代の代替行為である。

 三次元の生身の美少女に萌え、四次元でもいいけどね(例えば、夏目漱石の『夢十夜』)、本命は、三次元、四次元ですよ、渋澤龍彦の『人形愛序説』にしたところで、二次元ではなく、夢魔ですよ、所詮、代替行為だと思う。
 その限りにおいて「フィギュア萌え」は健全だと思う。別に違った性文化(本能と言ってもいいけれど、でも、やっぱ言わない方がいい)が初期設定されたわけではなく、生身の女の子に、何らかの僥倖で惚れられ、モテれば、二次元美少女は消えてしまうでしょう。多分、そういうことだと思う。
 問題はそのような生身の女の子に傷つかないでモテモードになかなか行かないという困難さに「まあ、いいか」と、童貞。で青春したり、「フィギュア萌え」をするだけでしょう。
 多分、「人形愛」は倒錯かもしれないが、「フィギュア萌え」は倒錯ではない。そういう概念措定を取りあえず僕はしている。
 フィギュアはビジネスに馴染むけれど、(だからこそ、樫村は「動物化」を「マクドナルド的主体」と概念措定しているのです。)人形愛はビジネスになじまない。ハンス・ベルメール、四谷シモン、天野可淡、はアートとして理解はしている。でも、村上隆はわからない。スーパーフラットの世界*1に遊んでみるか。

 同様に、最初から他者に疎外され、二次元に性的欲求をもつ環境におかれれば、それは通常の性行為となり、倒錯ではないように思われる。
 性は、フロイトも指摘しているように、他者とのやりとりの中に主体の成立の初期状態から埋めこまれているため、東のように、別の主体(神経症でない主体)が形成されているかのように考えるのは、無理があるように思われる。
 実際、ラカン派の精神科医斎藤環は、この東の議論を全く認めないし、私も、今のオタクが全く構造の異なる主体となっているとは思えない。
 東の「動物化」とは、他者の模倣や他者への同一化の機制のもとで成長し、他者(および愛)に依存する、同じ神経症的な構造をもつ主体の中での差異にすぎないと思われる。
 東がここで含意する「動物化」とは、人間としてなぜ生きているのかといったことを思考することがなく(実存的でなく)、象徴的なものへアクセスしないということである。通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動する「マクドナルド的主体」を指すものと考えられる。
 そして、だとすれば、本当に実存的でないのではなく、実存的なものを形として欲望するハビトゥスが形成されていないだけで、実存的な言葉には翻訳されないが、同等の人間的不安や怒り(他者や他者を介して世界と関わる際の)などが彼らに全くないわけではない。なぜなら、次章で見るように、人間はそもそも他者に依存し、自己に閉じるようにはできていないからである。
 マクドナルド的主体が形式合理性の内部に留まるのは、東のいうように、象徴的なものとアクセスせず、人間としての実存的な問題に触れづらい「動物化」の状態にあるからであり、そこでは真の再帰化としての創造性が生まれない。
 象徴的なものとは、数学の公式や科学の定理だけを指すのではなく、芸術などの文化を含むもので、それらの領域は、形式的合理性を超えた人間存在のあり方を記述するものである。(91頁)

 長い付箋ですね、どうも再帰性については、わかっているような気もするのですが、自信がないのです。僕のこのブログでも再帰性というキーワードで検索すれば、沢山、ヒットすると思う。本当に生半可でこなれていない気がします。*2