ライトノベルはやっぱ退屈か、

戦争と平和〈1〉 (岩波文庫)戦争と平和〈2〉 (岩波文庫)戦争と平和〈3〉 (岩波文庫)戦争と平和〈4〉 (岩波文庫)
戦争と平和〈5〉 (岩波文庫)戦争と平和〈6〉 (岩波文庫)カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)五分後の世界 (幻冬舎文庫)
 図書館から桜坂洋の『All You Need Is Kill』(集英社スーパーダッシュ文庫)を借り出す。

 戦闘開始から十分間、兵士は恐怖に溺れる。
 想像してみるがいい。
 鋼鉄の死が飛び交う場所だ。

 読み始めたら、いきなり、こんな冒頭で、唖然としました。
 「想像してみるがいい」。なんて、そんな、こっちに球を投げられても困る。いきなり、手抜きかよ(汗)。
 トルストイの『戦争と平和』、村上龍の『五分後の世界』の戦場の描写が懐かしい。
 他人事のような説明描写っていうか、製品取り扱いマニュアルの文体?いや、作文ですね。
 とてもじゃあないけれど、年寄りにはお手上げです。
 舞城王太郎嶽本野ばらなら、スリリングな気持ちで読めるのに、
 これじゃあ、脱力して読めません。勘弁して下さい。
 東浩紀筒井康隆がオススメになっても、僕にはダメですね。
 もし、この作品が「ライトノベル」というようなものなら、僕には「ライトノベル」は、
 全く、縁がないのですね。
 残念なことに読み進むことが出来ない。
 ゴメンなさい、せめて、絵が、映像が浮かべばいいのですが、僕の頭の中は空洞で、
 言葉によるドライブがかからない。
 ひょとして、僕の感性に欠陥があるのかもしれない。
 図書館に返します。
 わくわくした気持ちで本は読みたいのです。そういう意味でトルストイの『戦争と平和』は優れてエンターティメントの物語で、同時に図書館から借りた新訳のドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にしたところで、ミステリアスでもあり、読み出したらやめられなくなるでしょう。旧訳は読んでいるのですが、亀山郁夫の訳も冒頭からドライブがかかる。
 食わず嫌いではなく、古典を新訳でちょいと試食、試読して見て欲しいです。エンターティメントの要素から言っても、「ライトノベル」より、濃い味です。これぞ、エンターティメントと思える。
 ◆かって『レコレコ』という書評雑誌で石川忠司が書評道場の第二代目の道場主になり、その「本読み」の的確さにうなりましたが、石川さんは、「ライトノベル」ってどのように評価しているのか、又は全然視野に入っていないのか、訊きたいです。
そう言えば、保坂和志HPの掲示保板からの情報ですが、石川さんが、実際に聴講生の作品を講評しながら授業をすすめるらしい。楽しみですね。
 新宿の朝日カルチャーセンターですよ、詳細はここです
 そりゃあ、知人の若者で、ジャンクフードが大好きだというヤツがいます。マクドナルド以外にも美味しい食い物があるんだと教えてあげたいです。
 それを啓蒙だと厭うのなら、もはや、文学の再生計画なんて無理かもしれないが、石川さんに堂々と、「美味しいものは美味しい」と広報して欲しい。
 「ライトノベル」はジャンクフードではないのですか?
 でも、携帯小説はどうなんですか?、今度は、携帯小説にチャレンジしてみます。退屈でなければいいのだが、イラチですから、最後まで読むことが出来るかどうか、ちょいと心配です。掲示保板で保坂和志は真っ当なことを書いている。

文芸評論家はほとんどみんな、小説家が自分の小説を把握しているという前提(つまり、誤解ですね)で小説を読み、読み間違いの原因はそこにあるんだけど、彼はそういう風には考えていません。
小説家が自分の小説を把握しているとしたら、そこに正解があることになり、批評は正解探しになってしまう。小説を書いてみると、その正解のなさを実感することができる。小説を書くという行為において、意志が力をふるえる部分がいかに小さいか、ということです。

 引用文の彼は勿論、石川忠司です。
 事件が起きて探偵さんが登場という退屈なものではないのです。少なくとも小説は、読み手の中に、予想外の事件が起こる未来形で、偶有性に満ちたものです。僕という読み手、貴方という読み手、それぞれに、「読む行為」において自分の中に何かが起こる、そんなスリリングなものなのです。
 読むことによって「驚き」が生まれないとつまらない。美味しいと言うことはそういうことです。
 小説家だって計算しえない出来事が起こる、だからこそ、面白いわけ。

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

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