キャラクターズ 

 「新潮 10月号」の巻頭メタ小説?東浩紀+桜坂洋の『キャラクターズ』をやっと読了しました。中断しながら、何とか読み終わったのですが、いや〜あ、疲れました。
 小説についての小説、メタ小説は、大好きなのです、例えば高橋源一郎のものとか、金井美恵子とか、筒井康隆のものであれ、阿部和重であれ、笑いながら読むことが出来るのですが、メタものって、必ず笑いのツボがありますよね。とうとう笑えませんでした。
 前半はまだ期待感があったのです。こんなもんではないと、中どころになると、ラカン現実界象徴界想像界、そして、「対称a」を持ち出したり、「ボロメオの輪」の三対構造を「構造」(S)、「内容」(I)、「文体」(R)とリンクして、それぞれ、メタ東浩紀、メタ桜坂洋を造影するのですが、このあたりのややこしさは、疲労感が残りました。
 でも、斎藤環の『生き延びるためのラカン』は楽しく読めたし笑いもしたので、アイディアとして笑えるはずなのに、笑えなかった。
 だって、現実界東浩紀桜坂洋象徴界東浩紀桜坂洋想像界東浩紀桜坂洋、それと外部の東浩紀桜坂洋が入り乱れて登場するのだから、笑えるはずなのに、笑えなかった。ひょっとして、笑えないというのがライトノベルのキモなのかと、おかしな感想を持ちました。
 いったいこれは小説なのか、何なのか、不気味で理解し難いものでも、面白かったりしたら、それでナットクするのですが、何にも残らないのです。その残らなさが、この「ライトノベル?」のキモなのかと思っているのです。
 消化して何にも残らないなら、読んでいる行為、そのものを楽しめたわけなのですが、それすらなく、消化出来ないまま、そのまんま、排出されたわけで、読み手の僕が「読んだ」という記憶すら残らない「手応えのなさ」、「透明感」はナンダロウね。
 やっとこさ、コメントを書きました。
 脱「私」・脱「性」(生)・脱「暴力」(死)っていう小説なるものを確かに読みたいです。でも、これは小説ではなくて、東浩紀桜坂洋が「ガチンコ」した事件として受け取るべきかもしれないですね、「猪木とアリ」の戦いは「退屈だったもの」、エヴァンゲリオンの感想トーク(宮台真司×竹熊健太郎・TBSラジオLIFE)で、竹熊さんがそんなことを言っていましたが、唐突にそのことを思い出しました。
 セメント・メタフィクション、だから、笑えなかったんだ。読み手として参加も出来ない。
 参照:キャラクターズのキャラクター達 - 読丸電視行