子どもたちの言葉。


保坂和志さんのところの掲示保板のカキコで中学生の方がこちらのスピーチを紹介してくれました。ストレートに伝わる。何故、大人の言葉が説得力を持ちえなくなったのか、そんなことを考えました。(http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg)

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

[……]私自身の経験で言えば、中学二年の八月末の朝、窓を開けたときの空気がそれまで体に染みついていた感覚よりずっとひんやりしているのを感じたときに、世界と自分が別の存在であることを予感した。「予感した」と言ったって、それはかすかな違和感でしかなくて、空の高い所を鳥が飛んでいったその影が一瞬自分をかすめたようなもので、その感じを「世界と自分が別々の存在」という言葉にできるようになったのは四十歳頃だった。
 数学は考える対象が限定されているために、「十代にひらめいたことをその後、十年二十年かかって証明する」などとわかりやすく言いやすいけれど、ふつうの人間でも世界に対する根源的な手触りは十代のうちに(場合によっては幼児期に)経験したことが元になる。しかし十代に経験したそれを言える言葉は誰にもなく、その言葉は三十歳になっても四十歳になっても七十歳になっても探しつづけなければならない。
 「それができるのは哲学者とか文学者のような特別な職業の人だけだ」なんて言って、考えることから逃げる人のことは私は知らない。世界と自分のことを考えずに仕事だけして何になるのか。そして最後になって、自分の死を前にしたときに、わかりやすく噛みくだかれた仏教の講話とかそれ以下の出来合いの言葉にすがっていたら、自分の人生にならないじゃないかと言いたい。
 世界と自分のことに答えなんかない。物事に答えがあると思うのは、未来を固定したものとして考える以上の単純化だ。大事なことには答えがなく、ただ考えるという行為や意志しかない。
[……]ーー保坂和志著『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』p32よりーー