エマニュエル・ボーヴ(Emmanuel Bove)

あるかなしかの町

あるかなしかの町

 エマニュエル・ボーヴの本は邦訳では『ぼくのともだち』、『きみのいもうと』が刊行されているが、去年の秋、昼間賢翻訳の『あるかなしかの町』が白水社より発売されたのですね。
 ぼくのような上に紹介した二作の小説を読んでいないものにとって、縁の遠いものかもしれないが、ボーヴの小説に馴染みのある人、一時期、パリ郊外に住んだ人なら、「読むこと」による豊潤さを味わうことが出来るかもしれない。昼間さんの解説によると、この「あるかなしかの町」、《ベコン=レ=ブリュイエールはパリの中心部から北西方向に十キロほど離れた「町」である。現実には、ベコン=レ=ブリュイエールという名前の自治体は存在せず、正式には「クルヴォワ」という自治体のある部分でしかない。しかし、地図を見れば「ベコン=レ=ブリュイーエル」という地名は地区名として見つかるし、ベコン=レ=ブリュイエールの駅も存在する。この微妙な位置取りに「ボーヴらしさ」を直感してしまう読者の方々は、すでに相当なボーヴ・ファンだ!》とある。
 ちょうど80年前の「この町」を淡々と描いたエッセーというわけです。昼間さんによると、この町、ベコンは東京で言うならば京王沿線の雰囲気が感じられるらしい。僕が今、住んでいるところは京都と大阪の狭間の郊外都市の川沿いだけど、特急も停まる。ちょいと似ているかなぁ…。

何でも一時的で、つねに「もうない」と「そのうちできる」の間で停滞している空間、郊外。都会でも田舎でもなく、アニエールでもクルブヴォワでもなく、公的には存在しないベコンのよりどころは、その名前によって不安を覚えずにすむ唯一の場所、つまり駅である。しかし、誰も立ち止まらない駅ほど本質的に非中心的な場所はない。中心がない以上「ベコン=レ=ブリュイエールには町はずれがない」といっても仕方がない。町はずれを持たない町は町ではない=郊外を持たない都市は都市ではない=敵対する隣国を持たない国家は国家ではない。それでいいのではないか。郊外は「関心も愛着も」要らないユートピアだ。世界中が郊外化すれば「世界共和国」(柄谷行人)も夢ではない……。

 成る程ね、今、大澤真幸の『ナショナリズムの由来』を遅々として読んでいるのですが、大澤のグローバリズムの極北の果てに過剰な「ナショナリズム」を生み落とす、そのパラドシカルな不思議さに考えてしまう。
 郊外化とはある種の「グローバル化」ではないか、そんなことを思いました。そのような脆弱さ、不安に耐えられるか、耐えられないとしたら、「郊外都市」は何かを「強烈に欲望」するかもしれない。
 参照:http://bar-trilce.no-blog.jp/bookblog/2007/11/index.html