『日と月と刀』と「ほしのこえ」

日と月と刀 上

日と月と刀 上

沖仲仕の哲学者エリックホッファーについてブログでかように書いていたが、『安息日の前に』の一文がとても好きなので又、引用したくなった。

先日、短いエッセイからなる小さな本の最初の草稿を書き上げた。そのとき突然、最後の手を使ってしまったような気がして、この小さな本が思索者としての終わりを刻印するものになるかもしれないという不安に襲われた。新しいまとまった考えを再び紡ぎ出せるのかどうかも疑わしい。七十二歳になった私の知力が枯渇してしまったとしても不思議ではない。/うろたえたりはしなかった。いまや引退した沖仲仕として、一九四0年以来自分に禁じてきた、何千という小説を読む権利を手にしている。残された人生はわずか二、三年だろう。しかし、まず老いが自分の知力にどのような影響を及ぼしているのか、はっきりさせなければならない。判断力は衰えていない。いまでも意味あるものと無意味なものを区別できるし、読んでいる本や自分が書いている本について適切な判断を下すこともできる。楽観的な思考に傾きがちなのは確かだし、世界に対する関心が薄れ、記憶力の低下が著しいことも自覚している。しかし、決定的に衰えたと感じるのは他でもない、注意力である。/『人間の条件について』で次のように書いたのをおぼえている―「ひらめきによってのみ、われわれは自らの内面にある独創的で価値あるものを感じとることができる。ひらめきをつかみ、吟味する方法を知らなければ、われわれは成長することも、活力を得ることもできない」。思考の最初のかすかな動きに対する注意力を蘇らせ、養うことはできるだろうか。砂金取りをしていたころ、泥をすすぎ流したように、洞察の断片を拾う洗鉱桶として日記を使いながら、数ヶ月間、自分の知能をすずき流してやれば、どうなるだろうか。/こういうわけで、今日からこの日記をつけ始めている。少なくとも半年はつづけるつもりだ。この仕事が終わったら、疲れた頭に至福の安息日を与えてやることにしよう。(6、7頁)

日経の5/25の「半歩遅れの読書術」で、保坂和志小島信夫のことを書いているのですが、保坂さん自身が掲示保板で引用アップしているから、そちらから一部引用コピペします。

私がただ一人、心の底から尊敬し畏怖もしている日本人作家なのだが、文壇での位置づけは何とも曖昧だった。「異色」でも「非主流」でもないが、「主流」というわけでもない。「主流」というには、作品が論じにくすぎるのだ。社会性があるわけでもなく、文章が整っているわけでもない。
しかし文章を味わいたければ、いわゆる名随筆でも読めばいい。文章と演奏は共通していて、名演奏は味わい深いものでなく、むしろ荒々しい。文学に社会性を求める人は多いけれど、それは本来ジャーナリズムの領域であって、文学は社会を描くためにあるのではなく、社会を語るために必要な言葉や思考法の未知の領域を開くためにある。

小説は読むのは自由で楽しいけれど書くのは大変だとつくづく思う。♪なにもない空間 - うたかたの日々@はてな
だけど、小島信夫は全然推敲しないで、書きっぱなしですか?♪惚れ込むチカラ - うたかたの日々@はてな
すごいよねぇ、
丸山健二日経新聞文化欄(2008年4月20日)に脱稿した『日と月と刀』についてまさにこれぞ、「名文」としか言いようのない一文『尽きない文学の天空』をアップしているが、小島信夫は絶対かような名文を書かないだろうと言うことはわかる。頭とお尻だけを引用します。全文読むことをすすめますよ。メセージ性も強烈です。

 才能を磨かす、才能を育てずして、注文のままに書きつづけていると、けっして卵や雛以上には成長せず、時間の問題で朽ち果ててしまうのは自明の理である。よしんば感性の低い多くの読者に支えられて作家生命を少しばかり長らえさせることができたとしても、結局は初期の作品を超えられないばかりか、ただ単に職業としての寿命が延びたというだけの価値しか認めるものがない、とても残念な文筆生活に堕してしまう。
 羽ばたける成鳥になるまでの才能を育て得るのは、編集者でもなければ、読者でもなく、ましてや評論家でもない。むしろ、かれらこそがその真っ当な道を妨げている張本人である場合が多いのだ。書き手自身が目覚め、没頭と継続というひたむきな歳月を本気で送ろうとしない限りは、まずもって不可能だろう。そうするには、おのれの実力を他人の評価によって判断するのではなく、あくまで当人の眼力によって正確に冷静に把握することが肝心。その上で、少し無理をすれば手が届きそうな高さに次の作品の目標を設定し、そこへ肉迫するためのより具体的な計画を立て、果敢に挑んでゆく習慣をしっかりと身に付けなくてはならない。(中略)

 この過剰なまでのナイーブで真っ当さでないと、石は動かず、こんな風に結語できないだろうなぁ。

 最後の一行を書き終えたとき、信じつづけてきた小説家としての基本姿勢に間違いないことが、静かな興奮となって襲ってきた。あれくらい長い年月を費やさなければ、これくらいの作品は書けないのだということが、また、この喜びを味わうための四十数年の助走であったということが実感された。
 だが、その喜びも束の間だった。今はもう新たな大空を目指して、没頭と継続の日々を送っている。飛んでも飛んでも尽きることのない文学の天空は、もしかするとこの宇宙より広いのかもしれないと、そう思いながら

 小説を書いている僕の知人が物心ついてから最初になりたいと思ったのは「宇宙飛行士だったんだ」と言っていたが、文学は社会を描くためにあるのではなく、「宇宙を、いや、それより広いものを描く」ためにあるのでしょう。僕も感染して気分だけはどんどん彼方へ飛んでいった。僕も丸山さんと同年だもんねぇ。
 でも、ケータイ小説で宇宙まで飛んでいけるだろうか、新海誠の『ほしのこえ』でも見ますか?丸山さんの小説はケータイの届かない世界であることは間違いない。




参照:http://redhell.cocolog-nifty.com/misoji/2008/05/post_7a8a.html#trackback
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