本の食べかた

ユートピアの消滅 (集英社新書)

ユートピアの消滅 (集英社新書)

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 『ポスト消費社会のゆくえ』はセゾングループの総師だった辻井喬堤清二)にインタビュアーとして上野千鶴子が果敢に迫り、巧みに堤清二から話を引き出している。僕にとってはセゾングループは知人も働いていたこともあってとても気になる会社でもあったが、社会学者やライター達が特に1980年代を語る場合に「セゾン文化」として参照されることも多く、単なる一企業の枠を越えて街の風景を変えてしまった良くも悪くも知的にも身体的にもオシャレでありたいという若者たちの感染力を持っていましたね。
 そのような戦後消費社会を引っぱってゆき、いわば、消費者民主主義が何の疑念もなく打ち立てられ、中流階級の軸が根拠地となって再帰的に「セゾンビジネス」、「セゾン文化」が駆動したと思うのです。それが、バブル崩壊オウム事件、神戸淡路の震災を経て、「1980年代」は虚構だったのか、「セゾン文化」って蜃気楼のようなものだったのか、そんな見取りが僕にあるのですが、この辻井喬上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)は、腑に落ちることが沢山ありました。インタビュアーとしての上野千鶴子は達人ですよ。

上野 […]ところが次の世代はシニシズムのみをモードとして受け継ぎ、対抗軸となるべき公共性も共同体もまったく持たない世代です。彼らは八六年に四谷の所属事務所のビルから飛び降りて自殺したタレント岡田有希子にショックを受け、その現場を訪れそこを聖地化しました。つまり、この八○年代後半から、日本社会は脱政治化、つまり公共性が解体していく時代に突入していくわけです。
辻井 なるほどね。いまや、そういう対抗軸を持たないシニシズムの時代だと思いますが、怖いことでもありますね。
上野 そこに新しく登場する公共性やナショナリズムは、フレッシュで魅惑的な動員力を持っています。だから辻井さんがご自分のことをナショナリストです、とおっしゃるときとはまったく違う文脈が生まれています。
辻井 まったく違うんですが、そこで私は狂いだすのかなあ。つまり、いまの対抗軸を持たないシニシズムの世代を放っておくと、その魅力的なナショナリズムのエネルギーをどこに持って行かれるかわからない。インチキ政治家が自分のエネルギーにする危険性も限りなく大きい、ということですね。
上野 辻井さんはご自身著作『ユートピアの消滅』(集英社・2000年)の中で「二十一世紀に在るべきユートピアニズムを考える方法としては、『民主主義はユートピア思想の解毒剤であり、ユートピア思想のない民主主義は、魂を入れ忘れた仏である』という思考枠であろうか」と自ら問いを立てておられます。つまり、ユートピア思想というものを、いかに解毒しながら制御するかが重要な問いなのだと書かれています。(p287~8)

 そのようなユートピア思想を解毒しながら如何に公共性にに繋げるかですが、いわば左が「伝統や共同体ナショナリズム」にアレルギーを持ちすぎている。その結果、公共性の理念をナショナリズムの名のもとに、右に全部もっていかれてしまったと、上野さんは言うが、だからといってどのように伝統と向き合えばいいのか。ヘタな回路だと「美しい国」と言っちゃえば着地するみたいな俗流的伝統論になってしまう。辻井さんは、伝統アレルギーに陥っている人にはと「文学の世界」を提示し、短歌、俳句を持ち出すのです。
 詩はスローガンではないからねぇと、茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」を一部引用する。

  (前略)
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった
  (後略)

 ここには、反戦という言葉は一言も使われていない。でも反戦のスローガンより、訴えるチカラがある。詩とはこういうもので、公共性に接続する、降り立つ、潜勢力がある。
 ある知人のお嬢さんが、大阪府知事の今回の本の仕打ちに対して、昔のことを思い出して、「拒食症でヘンになっていたとき、毎日1冊ずつ本を読んでいたけど、あれは今思うと、ごはんは食べられない代わりに本を食べていたんだと思うよ」 と言っていたと言う。「本」はいのちの糧でもある。
 紀田順一郎の『図書館が面白い』を少しずつ読んでいるのですが、東京のゲーテ記念館を私費で創立した粉川忠は、戦地に赴く学徒兵が挨拶にくると、岩波文庫の「ファースト」を贈ることにしたと言う。15冊を用意してそれに番号をふった。

 戦争が終わったとき、戻ってきたのはたったの五冊に過ぎなかった。いずれも表紙はボロボロで、一冊は表紙しかなく、一冊は半分しかのこっていませんでした。表紙だけのこった理由は、行軍のさい、いちいち背嚢から取り出せないので一枚ずつ破りとっては読んだからである。読み終わってもそのページを戦場に捨てることはできないので、羊のように食べてしまったという。
 半分しか残っていない本については、持ち主が漢口攻略戦で明日戦闘というとき、野外に座って読んでいたところ、通りかかった別の部隊の隊長が、「いい本読んでるな」と、欲しそうに言うので、咄嗟に読了した部分破りとり、「ここはもう読みましたから」と言って差し出した。隊長は白い歯を見せて笑うと、「ありがとう」と一言、部隊のあとに続いて去っていったという。(p50)

 詩を食べてみたい、本を食べてみたい。多分、言葉も食べるものです。
 『民主主義はユートピア思想の解毒剤であり、ユートピア思想のない民主主義は、魂を入れ忘れた仏である』この言葉は何回も食べたくなる。

茨木のり子詩集 (現代詩文庫 第 1期20)

茨木のり子詩集 (現代詩文庫 第 1期20)

 今日付け日経の夕刊のプロムナードで松本健一が「『坂の上の雲』とパトリオティズム」について書いている。そこで、エセーニンの詩から「天国はいらない、ふるさとがほしい」という言葉を引く。確かに、《世界中のあらゆる宗教は天国を用意して、人を救おうとする。しかし、政治的イデオロギーもまた地上に天国を約束して、自らの正統性を唱える。これは「平等の社会」を約束した共産主義ばかりではない。イラク戦争を強行したアメリカは、イラクおよび中東社会に「民主主義」の天国を約束しつつ、そこから「ふるさと」を奪った。》
 エセーニンの「母への手紙」の歌が聴けますねぇ♪(http://byeryoza.com/topic/mp3/picimo.mp3