「リトルボーイ」の涙(4)


http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20080713/p1より続く
 リヤカーのてんぼうを両腕で引っぱり、横棒をお腹にあてがって、エンヤコラっと、その張り切った腰肉をモンペに隠しおおせないで夏の陽をはね返している女は安奈と言った。まだ19歳であった。この国では相応しからぬ背の高さであった。だが、細面の小さな顔に長い睫をはやした猫のような瞳が光り輝いていた。色白でほっそりしたうなじは艶やかで一昨日、短く切りそろえたため、産毛が柔らかな恥じらいとなって、汗にぬれていた。その切り取った長い髪はK市の近くの矢野に持って行けば、良いお金になった。「矢野のかもじ」は全国に名を馳せた主要特産であったのです。戦前の女性は自前の髪で日本髪を結った。その添え髪に「かもじ」を使ったのである。
 しかし、豊かな胸も腰も細くて長い四肢も恥らっていなかった。若い男達を立ち竦ませる程の若い健康な色気が外に向かって発散していた。(私の中に健治さんが生きているのだから、負けてはならぬ。)安奈は力一杯、リヤカーを引っ張った。とうとう英霊となった健治とたった一夜切りの逢瀬とまぐわいだったけれども、永遠に私の身体の中に宿ったと思った。もも子姉さんも誰も気付いていないみたいであるが、むしろその方が私だけの秘密として、いつまでも私の中に生き続けると思った。海の底に沈んだ彼の屍は藻屑となって私の中に感じることが出来ると思った。
 彼の遺骨がなくとも、砂漠の砂よりも細い粒となって砂時計の時を刻みながら、私の中にゆっくりと忍びやかに入り込んでいると信じた。長い時を数えて幻の骨時計がいつか私に素晴しい子を宿してくれるに違いないと確信した。
 このリヤカーのてんぼうにあてがってリヤカーの動きに合わせて動くお腹の動きの淫らさに安奈はふと顔を赤らめた。その淫らさを健治は愛し、すべてをその中にほとぼらせ、きっと宝物を宿してくれたに違いないと、そっと手をそこにあてがった。
 (健治さん、ここが、あなたの墓場なの。いつも私がいるからちっとも怖がることはないわ、安らかに眠って、時々歌を歌ってあげる。あなたが好きだった「海ゆかば」の歌を子守唄のように…、眠らせてあげる。そして、私の好きな「美まし夢を」…)
 安奈は澄み切った明るい声でシューベルトの「美まし夢」を歌い始めた。暑さに負けずうたた寝していた荷台の赤子が、その清々とした歌声に目を覚まし、むずかった。そうして、安奈に紅葉手を一杯拡げて差し伸べた。安奈は赤子の泣き声に驚き、てんぼうを地に降ろして赤子を抱き上げた。安奈は赤子を胸にしっかりと抱きしめ、まだ薄い赤子の頭をその広く長い手で優しく撫ぜ、歌声の洩れる唇を赤子の乳臭い頬に寄せて歌った。

ねむれねむれ めぐしわくご ははぎみにいだかれつつ、
ここちよき、うたごえに、むすばずや、うましゆめ。

ねむれねむれ、めぐみあつき、ははぎみのそでのうち、
よもすがら、つきさえて、ながゆめを、まもりなん。

ねむれねむれ、とくねむりて、あさまだき、さめてみよ、
うるわしき、ゆりのはな ほほえまん、まくらもと。ー近藤朔風訳『女声唱歌・美まし夢』(明治42・11)よりー

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