女も男もおんなでいこう!!??

日本浄土

日本浄土

ある人から、藤原新也の新刊『日本浄土』について教わり、どうやら、Shinyaトークによると、艶話が多いみたい、多分、Shinyaさんの男の色気が立ち上がるエッセイに仕上がっているみたい。
Shinyaさんは僕と同年ですが、僕より若いって言っても団塊世代のご婦人方がメインですが、Shinyaさんが「大好き」っていう人が多い。同じく同年の松岡正剛が千夜千冊で、『印度放浪』のレビューを書いていましたよねぇ。

とくに若者たちは藤原のゲンゴロウのようなモノローグ表現とアジア主義に落ちないアジア観察に強い関心をもち、ときには彼の家を捜し出して押しかけた。女の子も家にまで駆けつけた。「あれにはまいったね、贔屓の引き倒しだよ」と藤原は苦笑いしていた。きっとストーカーまがいのことも受けたはずである。しかし、ファンがそうしたくなるものを、藤原はあきらかにもっていた。実はぼくも何度もストーカーに悩まされている。

まあ、松岡さんもモテ振りを吐露しているw。「嘘がなくとも、白状しなければならない」(藤原)。
ついでに、雑誌「オルタ」に掲載された『黄泉の犬』の拙レビューも紹介しておきます。
そんな松岡正剛藤原新也の「男組」から、何故か、田中優子「おんな組いのち」のページに到着してしまった。
やはり、ある人が同じ文脈で、田中優子(在日横浜人)の「何を持つのか、何を持たないのか」コラムを紹介してくれたのです。

命より自尊心の方が大切だという価値観は、自殺にもつながるが戦争にもつながる。ここで考えなくてはならないのは、承認、自己肯定、自尊心は、外から与えられる評価によってしか生まれないということである。ナショナリズムは、在日でなくて日本人、女性でなくて男性、であることで心を満たす道具と化しているという。相対的な比較の上でようやく成り立つ自己である。これこそ競争社会の狙いどおりだ。貧しい農家の出身で、「米の自由化反対」の先頭に立っていた松岡大臣は、その志を売って大臣のポストを手に入れた。志より大臣のポストを選び、国民に対する責任より名誉の死を選んだ。彼も競争社会のお手本である。 大臣とフリーターが同じ価値観で生きているのが、現代社会なのである。 

武田徹さんが粥川準二さんたちとのネットラジオで、レギュラーの赤木智弘さんが不参加した最新のエントリーなんですが、 自殺者が3万人をず〜と越えている状況で、 自殺/他殺との境界線が溶解しているという臨界から、もう一人のトモヒロ(最近宮台さんあたりが、二人のトモヒロ問題という言い方をしているみたい)の「誰でもよかった」という連続殺人は他殺であるけれど、自殺の問題と通底しているのではないか、そういう側面からの秋葉原殺人事件を考えることも必要ではないかと問題提議していました。
洋泉社 からムック本『アキバ通り魔事件をどう読むか!? 』が出版されましたが、様々な論者が色んな切り口で書いてはいるが、そのような自殺の問題とつなげているものはなかったと思う。
上に紹介の田中優子さんの結語で、自殺した松岡大臣も、戦争は、希望と言ってしまう赤木さんと「相対的評価としての自尊心」(村社会内での承認でしょう)というところで繋がっていると読めましたが、もうひとりのトモヒロもそんな側面があったかも知れない。せめて、自尊心が、承認が、孤高の絶対評価に足場を持つなら、 自損としての他殺を防げると思いました。*1
それはそうと、週刊金曜日に赤木さんの本田由紀の『軋む社会』のレビューが掲載されていましたが、その洗練された文章にビックリしました。
僕のbk1の拙レビューに比べると雲泥の差です。美文なんです。荒削りのところが研磨されているという感じでした。
 田中優子さんの言う女も男もおんなでいこうは、森岡正博の『草食系男子の恋愛学』の男子に近い感じがします。それは、又、杉浦由美子さんの言う腐女子に限りなく近い感じもするんです。
 どちらにしろ、限りなく「男」を減殺するためにホルモン療法をすることで、僕の延命は図られることは間違いない。ひょっとして、地球もそんなホルモン療法が必要ではないかと、アブなジャンプをしました。