田口ランディ/加爆のリトルボーイ

被爆のマリア

被爆のマリア

id:kanjinaiさんの何故、「ヒロシマは特別なのか?という問い」は学者の仕事というより文学の問題だと思う。先日、DVDで『夕凪の街 桜の国』を見たけれど、井伏鱒二の『黒い雨』、『はだしのゲン』原民喜『夏の花』と同じような文脈にあるけれど、二年前に読んだ田口ランディ『被爆のマリア』は、そんな問いの悩みが生んだ小説だったと思う。

ヒロシマから語り継がれた「原爆の火」で<私>の結婚式のキャンドルに火を灯す父親のアイディアに娘は違和を感じる。その過剰なメッセージは社会的正義を体現しているからこそ、頭では抗うことは出来ない、そこに、素晴らしい「戦後平和民主主義」のメッセージが刻まれている。でも、娘は言葉にならない違和感を裡に蔵して、父親が聖人さんから分火してもらった「原爆の火」を「フツーにやりたい結婚式」に点火することに、ためらいを感じる。
 結婚式だからこそ、好い加減に妥協したくない、……http://www.bk1.jp/review/0000439778よりー

一応、僕も「創作」のカテゴリーで小説『リトルボーイの涙』を書きつづけているのですが、別段、結論が決まっているわけではなくて、創作っていうカタチでないと、僕の思考が深まらないと言うことで書いているわけです。まだ、たったの五回目で、構想の分母からすれば、まだ何十分の一ですねぇw。でも、未完だけはしないつもりです。