「シンヤちゃん、キスしよう」(静江)

http://www.bk1.jp/review/0000468258

日本浄土

日本浄土

「シンヤちゃん、キスしよう」(静江)というタイトルで藤原新也の『日本浄土』のbk1書評を投稿しました。*1

今まで、藤原新也の本はそのエネルギッシュさに圧倒されて、同年輩なのにシンヤさん、相変わらず「熱くて、若いなぁ」と背中を押される感じで読み進んでいたのですが、今回は初めて余韻を楽しみながらゆっくりとページをめくりました。
 島原、尾道、天草、門司、柳井、祝島能登、房総と名所・旧跡ではない、ひっそりと佇む土地で巡り逢う人々が、「記憶の故人」であれ、一期一会の濃密さで一輪挿しのように切り取られて行く。
 距離を置いた写真家の目ではなく、還暦を過ぎた男の内奧が甘美に露呈されて行く。そのような道行きだからこそ、「日本浄土」なのだろうか。
 冒頭の「口紅」における藤原少年と生家の旅館に勤めていた仲居の静江とのキスシーンから、終わりの難病の「五月の少年」の真っ白いカラーの花まで、一転すれば残酷な風景が押し寄せ、ここは浄土なんかではなく、「地獄」だと言ってしまって怒りを天に唾する一歩手前で大海に針を探し当てるのです。その針は藤原新也という表現者の掌に拾われる。
 聖地に暗転する驚きがそこにある。それを人々は奇跡と呼ぶかもしれない。ただ、どのように呼ぼうとも、その予想しがたい出来事が希望を産み、明日も又、生きられる針となる。そのような「日本浄土」の道行きなのです。
 天草でリサイクルショップの店先に置かれたママチャリを千円なにがしかで買って旅を続ける。最早、地方はどこも車社会で、行き当たりばったりで路線バスをつかまえるなんて大変です。
 女店主がオマケとしてママチャリの買い物カゴに無理矢理、ホンコンフラワーとなぜか招き猫の置物を押し込む。
 そんな思わぬ出来事が針なのかもしれない。天草の鬼池までフェリーに乗る間際に口之津のコンビニで買った380円の弁当が15品目のおかずがあって、そのどれもが手作りで実に美味しい。
 亡くなった友人の伊勢が学生時代につくってくれた五島うどんを求めて鯛ノ浦に行くが食堂が一軒もない。諦めてフェリー乗り場に着くとどこやらとなく伊勢が作ってくれたアゴの出汁の匂いが漂って来る。
 《私は伊勢にごちそうになって以来、五島うどんは各地で食っている。しかしあのドーンと満月のようなアゴはんぺんの入った、アゴ出汁の五島うどんには出会ったことはなかった。それがこんな忙しいフェリー乗り場の片隅のなんでもないカウンターの店で出てきたのだ。》
 地獄の針ではなく、聖地の針なのです。
 記憶の豊壌さは、時として天より大きいものかも知れない。そして、今とつながっている。針の穴に糸を通し、曼陀羅の織物を編む営為は表現者の宿業であろう。そんな作品を読むことも一人の読者として、大海の針を拾う歓びとなる。(http://www.bk1.jp/review/0000468258より)