世代論を越えて

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

前々日のエントリーで、後藤和智著『おまえが若者を語るな!』について言及しましたが、マイミクさんからかようなメッセージを頂戴し、了承を得てコメント欄に転載しましたが、こちらの本文にも公開アップします。

ちなみに私の場合は、世代論や、ためにする「若者論」に苛立つというより、「当事者のことを考えていない」議論が問題だと思います。
作品と社会事象は一応分けることが可能だし、「批評」という言葉は混乱を招くので使わないとして、上階の窓際から下界を見下ろすような言論(メタ論壇?)の機能は、一億総中流的な幻想があった盤石な時代と、現在とでは根本的に意味合いが変わっている気がします。
ある種の知的サークルのなかで、特定の論者が先端みたいにもてはやされ、社会学者を名乗る者がそのような椅子につき、名前は代替わりしても、ジャーナリズムにおける社会学がブレイクして、少なくとも対読者においては、社会を変える道具ではなく、自分をそこに重ね合わせていく消費材になってしまった。結果、こないだブログで出た「J社会学」ではないですが、システム維持=行動しなくていいんだ、という免罪符・シニシズムとして機能した側面があったと思います。
これは社会運動をしろということより、社会を評論する言説というものも当の社会状況とセットでなんぼのものであり、現在の若い読者についていえば、格差や貧困など主要に論じられる問題のまさに当事者であることも少なくない。一方で、そうした問題の切実さというのは、いま社会の中枢で力をもつ年代の人々や、発言権のある論者・メディア関係者にとってはあまり実感が湧かない部分が多く、何だかんだ盛り上ってるように見えても世間的には本人たちが思ってるほどメジャーな問題ではないと。
こういうストレートな物言いは逆効果な気もしますが、まさに当事者である人々が、ネットで評論家を気取っている光景というのは、見方によっては痛々しい。そういう意味で「赤木論文」などはグッとくるものでしたが。システム維持=自己破滅のような現在の潮目において、「ためにする議論」を切り分けて見切る、あるいは批判的に振り返る必要があると感じています。

>社会を変える道具ではなく、自分をそこに重ね合わせていく消費材になってしまった。金融派生商品と自己言及とが、ドッキングした言語消費財になったということでしょうか?
>何だかんだ盛り上ってるように見えても世間的には本人たちが思ってるほどメジャーな問題ではないと。これは言える。先日、証券セミナーの集まりがあって、質問タイムで僕は「貧困ビジネス」について触れましたが、講師も会場も引いちゃいましたねぇ。「貧困問題」は若者だけに特化した問題ではなくて、年金、高齢者医療・介護などの老人問題にもつながる。若者論というカタチで縮減するとせっかくの問題意識が社会変革の力を持ち得ないと思います。
【参照】
金融と革命の迷宮
http://d.hatena.ne.jp/schizo-08_08/20081019
rakurakuhp.net
若者論は疑似問題として、利用されかねない。経済問題に縮減して政策論争をすべき問題かもしれない。立岩真也さんが提示しているような累進課税を元に戻すとか、やれることから手をつけるべきでしょう。そんな経済問題に手をつけるのがイヤなので「道徳・教育」のような精神論、自己責任論に若者論を回収しようとする。そのような騙りが俗流若者論かもしれない。