「竹内好の残したもの」2の(1)

2.「解説:アジア主義の展望」『現代日本思想体系8ーアジア主義筑摩書房、1963年
◆この全集は、過日、エルライブラリーで本の抜き出し作業をしたのですが、
もらってくれる他館がなく、行き場がなくて、机の上にどんと積んでいたのです。
僕がこの「アジア主義」と「アナキズム」の巻をもらおうと抜いたのですが、どうせなら、全巻欲しい人や団体、館が出てくるかもしれないから、どうせ頂戴するなら、全巻揃えにしないと申し訳がないとつらつら悩んで結局、断念しましたが、やっぱもらっておくべきだったと後悔しています。
中島さんのレジュメを見ると、この全集に収録されているテキストが多いです。
◆文学少年だった中島が、竹内好を知ることで研究者の道に進む切っ掛けになったという「そもそも論」は、最後に中島が言って、会場から怒りの声があがった「文学は死んだ」という見取りにつながるのであろうが、だけど、大澤真幸にしろ、山田稔にしろ、黒川創、鶴見さんにしろ、むしろ文学者としての竹内好に竹内の核があるのではないかという見取りがあったと思う。
鶴見さんの言葉で言えば、「実存主義歴史観」ですねぇ。『死者の書』の折口信夫に近いとおっしゃる。竹内は仙人になりたかったんだ。
では、中島のレジュメに戻って。
(1)革命的アジア主義…下からの主権要求・異議申し立て、明治政府の反主流派、「明治六年の政変」で下野、藩閥政治批判、近代化路線への批判、反帝国主義
(2)上からの政治、明治政府の主流派、政権の中心、パワーポリティクス、近代化路線、「脱亜入欧」、植民地主義帝国主義、上からの「大東亜共栄圏」構想

良くも悪くも明晰な二分法です。多分、かような語法では竹内好を語り尽くせないことは自明ですが、研究者たる中島のアクセス方法としては、まあ、賢明でしょう。
中国文学者の井波律子が竹内の語法、文体について喋ったが、魯迅もそうですが、中国語そのものも、否定形で語る語法が多い。鶴見さんは盛んに言語って身ぶりの一つで、身ぶり>言語なんだ言っていましたが、竹内の文体は、「ない、ない、ない、ない、」で最後に肯定文が登場する。
多分、否定することによって肯定する何かを浮かび上がらせる。それを主体と言ってもいいかもしれないが、近代における欧米型の語法・文体は最初から堂々と肯定を連ね、積み重ねる。主体を端から明確にする。そんな身ぶりに引いてしまうのが「アジア主義」なのか。
多分、ヤマケイさんこと科学史家の山田慶児が確か言っていたことですが、「アジア主義」って地政学的な概念ではなく、あくまで観念でそのような肯定的な語法で語る欧米主義に対して否定形を積み重なることで見えてくる何者かが「アジア主義」なんでしょう。わかりにくいと言えばわかりにくい。
日本の近代化の道は(1)の革命的アジア主義が(2)の反革命アジア主義(優等生文化)に乗っ取られる道行きであって、そこに「連帯」と「侵略」というアジア主義における二面性が現れる。
黒川さんが、花田清輝の『復興期の精神』を取り上げていましたが、僕は花田さんの文章が大好きで、あのレトリックを駆使した文体に圧倒され、ユーモアに頭を垂れるのですが、ヤマネン(山田稔)さんが武田泰淳に似た包容力のある暖かい人だったという人物像を聴くと、僕の中に、花田清輝武田泰淳÷2=竹内好という方程式が点滅しましたw。