保守政治家たちとアジア(=反革命アジア主義の復活)

松岡正剛・千夜千冊の「長田弘・高畠通敏・鶴見俊輔『日本人の世界地図』」を読んでいると、こんな一文があった。

このような日本人の押しつけ主義は、実はアメリカ人によく似ている。アメリカにもそういうところがある。しかし、それが日本のばあいは、自分たちが西洋化したことでグローバルになったとおもいこんでいるという、とんでもない誤謬になる。

多分に「大アジア主義」は、「王道」と言おうが、「覇道」と言いかえても、そもそも王道/覇道はスレッドの断絶があるものではなく、「王道」≒「覇道」という具合に状況(文脈)によって、「王道」に見えたり、「覇道」に見えたりするのではないか、中島はあるところまでは、大川周明竹内好は、「王道」=革命的アジア主義という顕れのポイントで重なっていたが、結局、大川は「覇道」=反革命アジア主義へと着地して枝分かれしたようなことを言っていたが、単なるこの二分法的な問題の出し方では、教科書的な解答は出ても、どうにも腑に落ちない。
そもそも、「アジア主義」という概念化こそが、問題ではないかという問いを発すべき必要があるかもしれない。松岡が書いているような「日本人の押しつけ主義」の文脈で、「アジア主義」を捉える考察が必要だと思われる。
『日本人の世界地図』では、30年ぐらい前の鶴見俊輔も登場しているが、先日の「竹内好の残したもの」の講演で、好意的に駅のホームで立ちつくしていた生の吉田茂を見た思い出を鶴見俊輔は語っていたが、確かに度胸のある人だったであろう。
『いまなぜ白洲正子なのか』で、正子は、子供の頃から吉田のことを「おじさま」と慕っていたし、白洲次郎吉田茂が運命的な出会いになったのも、正子の存在があったからとも言える。
戦後、外務省次官をやっていて、回想録『モスクワにかける虹』を書いている松本俊一が呉の高校時代、「先輩ようこそ」っていう感じで学校で講演があったことを憶えているけれど、1959年頃だったのだろうか…、半世紀前の話なので、記憶に自信がないけれど、とうとう外務大臣にはなれなかったねぇ。
それはともかく、↓こちらさんで、岸信介、矢次一夫、伊藤隆の『岸信介の回想』(文藝春秋、1981)が引用されていたので、紹介します。
中島岳志のレジュメ7.「保守政治家たちとアジア(=反革命アジア主義の復活)」で引用されているのは、『岸信介回顧録』(広済堂出版 1983/01)ですが…。
(1)『岸信介の回想』から(1) - トラッシュボックス
(2)『岸信介の回想』から(2) - トラッシュボックス
(3)『岸信介の回想』から(3) - トラッシュボックス
(4)『岸信介の回想』から(4) - トラッシュボックス
・「対米協調」路線の吉田内閣
鳩山内閣…「対米自主」路線への切り換えを模索
 ・積極派の鳩山首相、消極派の重光外相
  →そういう状況なので、6.のレジュメのバンドン会議鳩山首相は参加せず、当時の経済審議庁長官の高崎達之助が代表になり、アジア諸国が不満を持つわけです。そして、岸信介はその反省のもとに積極的に首相としてアジア歴訪を始める(1957年)

「アジアにおける日本の地位をつくり上げる、すなわちアジアの中心は日本であることを浮き彫りにさせることが、アイク(アイゼンハワー引用者)に会って日米関係を対等なものに改めようと交渉する私の立場を強化することになる、というのが私の判断であった」(『岸信介回顧録』312頁)
 →その後、東南アジア諸国を歴訪。賠償交渉の進展。
*竹内の目に映った岸のナショナリズム・アジア認識
 =「反革命ナショナリズム」であり「反革命アジア主義
  →「優等生=ドレイ」としての日本
  *「革命のエネルギーがそっくり反革命に転化される型の繰り返し」からの脱却

この章の最後の中島のレジュメは「脱却」ですが、それが、最後の章、「8.竹内好と60年安保闘争」になるのです。60年はとうとう景気が悪く、実家が倒産して、僕は「60年の夏」が終わった時、大阪の高校に転校する。続きは、又…。