「近代の超克」とは何か

kuriyamakouji2008-12-20

「近代の超克」とは何か

「近代の超克」とは何か

図書館で借りた子安宣邦の『「近代の超克」とは何か』の冒頭で子安は↓のように書き始める。

竹内好が昭和二十六年九月の『文学』に掲載した論文「近代主義と民族問題」で「日本ロマン派」の戦後的黙殺に対して発言している。「マルクス主義を含めての近代主義者たちは、血ぬられた民族主義をよけて通った。自分を被害者と規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自己の責任外の出来事とした。「日本ロマン派」を黙殺することが正しいとされた」(p11)

確かに戦後史の中で丸山真男を始めとした「虚妄の民主主義」を合理的に選択した歩みでは、そのような民族にかかわる「日本ロマン派」を黙殺したことは否めない。だけど、それは普遍性としての近代民主主義に内包するものであろう。そのようなロマン的民族問題を封印しなければ、戦後民主主義は持続不可能だったという政治的側面があったことは否めない。
かって、三島由紀夫が東大全共闘の集会で、学生達に対して、君たちが天皇制を認めるなら、「オレがそちら側に座ってもいい」という発言があったが、少なくとも、学生たちの運動にはそのような「日本ロマン派」の戦後的黙殺に対して違和感があり、丸山真男つるしあげの事件があったのであろうとも言える。
一方、京都では高橋和巳がエッセイに書いているように白川静の研究室には土足で上がり込むような学生はひとりもいなかった。保坂和志も書いていますねぇ。このような、三島、白川に関するエピソードを僕の過去エントリーにも書いていますが、そのことを思い出しましたねぇ。
でも、いまだにこの問題は今日も、多分、未来に渡って問い続けられるやっかいな問題だと思う。
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特別記事・白川徹(アジアプレス)『「九・一一」後のアフガニスタンNGOスタッフ殺害事件を受けてー』を読みながら、中村哲代表の「ペシャワール会」のスタッフである伊藤和也さんが、まさか殺されることになろうとは、その問いを検証しているが…、キーワードの一つに、やはり竹内好の普遍性としての「アジア主義」のやっかいさがあると思う。