二つの月/二つの太陽(眼)

[rakuten:book:13019706:image]
1Q84(BOOK1(4月ー6月)) [ 村上春樹 ]
ミクシィの方では公開していたのですが、こちらのブログでも村上春樹の『1Q84』のbk1拙レビュー全文アップします。
一昨日の相国寺での松岡正剛講演では、往+還、行ったり来たり、here&there、二つに一つについて語ったわけです。
村上春樹の『1Q84』も生と死の往還の物語でしょう。
春樹が二つの月の物語なら、今回『終の住拠』で芥川賞をもらった磯崎憲一郎の『眼と太陽』は二つの太陽の物語だと思う。
そんで、『眼と太陽』の拙レビューをbk1にたった今、投稿しました。http://www.bk1.jp/review/476556
タイトルは『二つの太陽、眼の物語』です。
ところで、『世紀の発見』の刊行記念として佐々木敦さんとのトークセッションがジュンク堂新宿店で18:30から開催されますね。でも、満員御礼で入場できないみたい。
http://www.junkudo.co.jp/event2.html
インタビュー記事を読んでみる。♪http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090715/acd0907152246007-n1.htm♪♪http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090715/acd0907152246007-n2.htm
付記:村上春樹1Q84』の拙レビュー

【終わりではなく始まりの物語】
1Q84」であれ、「1984」であれ、作者の手になるフィクションであるのは自明であって、月が二つ空にかかっていようがいまいが、読み手が奥深いところから、感染して行く一種の症候に犯されたと身震いするような作家の言葉に浸されて時、その作品はリアルなものとして立ち上げる。
読者の僕は逃げることの出来ない当事者性を獲得する。多分、すぐれた作品はそのような意味で読者を拉致するのであろう。
拉致され得ない安全地帯で村上春樹の小説を批評しても見当違いか砂を噛むような思いになるのは春樹の小説にはある種のイニシエーションが要請されるのかもしれない。
アイロニカルな僕は春樹ワールドの住人の資格はないかもしれない。にもかかわらず、リアルタイムで春樹の重要な作品はほとんど読んでいたが、ただ、ファンタジー、エンターテイメントとして春樹の物語を楽しんでいたと思う。
それは、肩肘張ったいわゆる純文学に対峙する構えではなかった。今回の新作にしたところで、物語を存分に楽しむぞ!っていうスウィッチが入る。
物語というクリシェな乗り物をバカにしながら、乗り物のない作品でどう踊り狂っていいやら途方に暮れる。僕にとって現代における純文学とは、乗り物のない作品で、多分、フリージャズに近いものだろう。
春樹のジャズは違う。背景に豊饒な物語がある。何の変哲のない料理にしたところでそうだ。手作りの物語を仕込む。音楽であれ、アイロンのかけ方であれ、ワイン、ビールであれ、春樹のレシピが美味しく提示される。僕は脱力して物語の森を彷徨い楽しむ。
春樹ワールドのメロディーラインが僕を森の中に消せない。いつか必ず出口(希望)の光が見えるという予感がある。安全基地が安全基地たり得るのは「愛」を信じることが出来るからであろう。
マネーは勿論、宗教、思想が信じられなくとも「愛」という軸があれば、天動説の世界であれ、地動説の世界であれ、上空に月が星のごとく無数に光っていようが、そこは安全な王国であろう。「空気さなぎ」が胚胎するものが、「虚無」か「愛」かリトル・ピープルの絶え間ない作業を見守るしかないのであろうか。
ただ、空気は絶え間なく変容する。その絶え間ない格闘が他罰的な外部の問題ではなく、一人一人の内部の問題として考え続けなくてはならないのだろう。その作業に耐えることが出来るには「愛がなくては」(paper moon)は叶わない。

1945年8月6日午前8時、爆撃機エノラゲイ」は、「リトル・ボーイ」と命名された原爆を搭載し、僚機「グレートアーティスト」と一緒にヒロシマめがけて、飛行していた。
二つの月の暗喩は爆撃機とも言える。僕たちはヒロシマの惨劇を知っている。「リトル・ボーイ」が黒い涙を流し戦後アメリカ型民主主義に犯されたとも言える。リトル・ピープルは善悪を超えているとしても、<空気さなぎ>が胚胎したものが、KYな人々を排除する世間と言うものであったかも知れないが、それらは綻び始めている。Book2は終わりではなく、始まりなのでしょう。

春樹の文学はアメリカ文学の土壌の上に花開いたものであっても、少女作家「ふかえり」の朗吟する『平家物語』を召還する。
ジョージ・オーウエルの『1984』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、チェーホフの『サハリン島』、1968年、オウムの1995年、それらが物語のフレーム内にしっかりと腑分けされている。
だからこそ、村上春樹ワールドの謎解き本のようなものが欲望されるのであろう。謎が渦をまいて、Q&AではなくQ&Qで謎の月が中空に立つ。
僕はそのような謎解きにはあまり興味がない。ただ僕のクロニクルに伴走した、この国の現代史の全体小説として読んで楽しんだことは間違いない。でも、どうやら、今回は単なるエンターティメントとして楽しむには重い課題を突きつけられ喉元に<青豆>の銃が…。
《「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルが言った。/「ほうほう」と残りの六人が声を合わせた。/「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。》

http://www.bk1.jp/review/476467より、投票できます。