Web評論誌『コーラ』8号が刊行されましたね。

Web評論誌『コーラ』8号のご案内 - シャ ノワール カフェ別館
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-8.html

やっぱ「一人」と「一人」との関係性だねぇ。
単に人との関係性と言っちゃうとマジョリティなり、組織なり集団なり、
見えない関係性に回収されてしまい部品化された暴力が渦を巻く。

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■■Web評論誌『コーラ』8号のご案内■■■

本誌は〈思想・文化情況の現在形〉を批判的に射抜くという視座に加えて、存在の自由〉〈存在の倫理〉を交差させたいと思います。そして複数の声が交響しあう言語‐身体空間の〈場〉、生成的で流動的な〈場なき場〉の出現に賭けます。賭金は、あなた自身です。

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 ★Web等での本誌のご紹介も、よろしくお願い申し上げます。

 

●シリーズ〈倫理の現在形〉第8回●

倫理のふるさと

──存在の暴力性と、共に存ることの基盤

 岡田有生

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 以下では主に、社会のなかでの暴力性や権力性といったもののなかで、非常に限定されたもの、個人的なものだけについて考えるだろう。

それは、基本的に個人によらない暴力(権力)は検討されないということと同時に、個人が他の個人(または生き物)に対して行使するのでない暴力についても検討されない、ということである。端的に言えば、国家による暴力や、革命やストライキなどの暴力・権力は、その是非を含めて論の直接の対象にはなっていない。

 そこで、この個人的なものとは、私的なものといってもよく、それだけが「倫理」の名において問題にされるということには、それ自体権力の濃い影を見てとることが(おそらく)できるであろう。

 だがともかく、ここではそのこと(個人的な暴力性・権力性)について考えることにする。(以下、Webに続く)

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●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

 「第11章 哥と共感覚・上」

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「第12章 哥と共感覚・中」

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 中原紀生

 前章で引いた丸山圭三郎氏の議論を参照しながら、ここで、(私がいうところの)貫之現象学の三層構造について、また、身の伝導体から詞の伝導体へというときの、その意味合いをめぐって、言葉と概念の再整理または再定義をほどこしつつ、あらためて再考しておきたいと思います。まずは、「伝導体」の意義の確認もしくは確定から。

 第7章で、私は、おおよそ次のような趣旨のことを書きました。いわく、伝導[conduction]とは、帰納[induction]、演繹[deduction]、洞察[bduction]、生産[production]に次ぐ、そしてそれらを総括する推論の第五の形式である。ここでいう推論とは、単なる認識の作用にとどまるものではなく、物質世界や生物の進化、精神世界における観念の連結を含めた、森羅万象の存在者の運動全般をつかさどる理法(ロゴス)のごときものをさしている。伝導という推論(同時に、伝導という現象)は、したがって、万象の内部で稼動する存在者の運動そのものであり、そのような運動が成り立つ場のことを伝導体という。(11章より、以下Webに続く)

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 ●連載:新・映画館の日々」第8回●

 〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉

    ──男性のホモエロティックな表象と女性主体(下)

  鈴木 薫

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 『ユリイカ』の2007年12月臨時増刊号「総特集BLスタディーズ」に載った石田仁の二つ目の論文、「『ほっといてください』という表明をめぐってやおい/BLの自律性と表象の横奪」[石田2と表記し、最初の論文は、以下、石田1とする]で、石田は〈表象の横奪〉(appropriation of representation)という概念を導入する。そして、腐女子は、ゲイ男性という〈他 者〉を表象し、これはファンタジーだから現実のゲイには関係ない、だからほっといてくださいと言うが、やおい/BLが「ホモ/ゲイ」という言葉を使っている以上、それは現実のゲイを「すでに・つねに参照している」、ゆえに「『やおい/BLはファンタジー、フィクションだから』無関係とする主張は誤りであろう」と主張する(石田2; p116)。

 まず、appropriationの訳語を、収奪、搾取を連想させる〈横奪〉とし、ことさら簒奪者として、のみならず、「宗主国」という語まで使って腐女子を表象することの暴力性を指摘しておかねばなるまい──権力関係を隠蔽するという暴力。女のセクシュアリティがいかに社会的に認められていないかについてはすでに述べた。「リアルゲイ」の側はつねに自分を真正と、やおいのゲイ表象(と腐女子の欲望)を偽物と──極端な場合には作品を見さえせずに──断じられる立場にあるのに対し、女は、自らの欲望が、“参照の淵源”として尊重されることの絶望的なありえなさを知っている。(以下Webに続く)

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 ●コラム「コーヒーブレイク」その2●

 啄木の妻──節子の「初恋のいたみ」

  橋本康介

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 ソプラノ版で知っていた、歌曲「初恋」(詞:啄木、作曲:越谷達之助)を、先日テノール版で耳にしたとき、「この歌はソプラノこそ似つかわ しい」と強く思った。何故そう思ったのかをずっと考えていた。いま、その 理由が分かった。

 啄木の初恋の相手、堀合セツ(節子)が唱っていると思えたからに違いない。(以下Webに続く)