国立国際美術館(大阪)

ヘレン・ケラーまたは荒川修作
昨日は小さい庭の剪定をして久しぶりに大汗をかきましたが、夏日の今日暑さにもうんざりしながら、
電車に乗って中之島まで出かけました。乗り換えなしで結構ラクチンなのです。
国立国際美術館は数回しか行っていないが、週末とあって来館者は沢山いましたねぇ。
ぼくはB2で開催中の「死なないための葬送ー荒川修作初期作品展」を観るだけのスケヂュールだったので、余裕があったのですが、帰宅すると夕方になってしまった。
しかし、入館料が無料とは知らなかった。65歳以上は一般420円のところ無料なのです。
荒川は1961年12月、ニューヨークに渡るのですが、渡米以前の1960年、61年の日本国内で発表された作品(棺桶型の立体作品)を集めて(初期立体作品20店)展示されたのです。
半世紀前の荒川の若き思いが棺桶に封じ込められたとも言えるのですが、大体、ぼくも中にお邪魔して入れるぐらいサイズはデカイけれど、アンモナイトの化石などの展示物を観ているような感触がありました。セメントと綿で、棺桶は木枠ですが、確かに「化石の夢」は死なない。
参照:2010-05-19
偽日記さんから引用させてもらいます。ぼくは「ボトムレス」を観ていない。

今、大阪でやっている展覧会では「ボトムレス」は展示されてないみたいだけど。
おそらく荒川は、人間の生命活動のすべてを、図示したり記述したり出来るように幾何学化して把捉したいと考えていたのではないかと思う(死なない、というのは、そういう意味ではないか)。それはつまり、マテリアルというものを記述によって完全に代替する、押さえ込むことが目指されているということだと思われる。だが、そこで面白いのは、それをよくあるSFみたいに、コンピューターのメモリー内部に記憶や意識を完全に移行させる(あるいは、もうひとつの宇宙をつくる)というような形でではなく、身体のまわり(身体の外)にある物質を組み立てることによって、その空間の内部に(空間そのものとして)生命活動を封じ込めようとしていたというところではないだろうか。でもそこで、空間をつくるには物質が必要だが、そこで把捉されるものは(生命活動そのものであって)物質ではない、という点が重要になる。荒川の作品の異様なまでの薄っぺらさ、記号と現実の混同、マテリアルへの軽視は、だから必然的な意味を持つ(図式的で観念的で平板である「意味のメカニズム」と、具体的な空間の創造としての建築物は、その薄っぺらさによって裏表で重なるし、それを端的に示しているのが「ボトムレス」ではないか、しかしまた「ボトムレス」ではまだ、かすかにマテリアル-固有性-記憶への執着が匂っていて、それがこの作品を「美術作品」としているように思われるのだが)。生命が幾何学化されるためには、それ(生命活動が把捉された空間)を組み立てるための物質も同様に幾何学化されていなければならない。だから、あらゆる物質は(記述のための記号のように)仮のもので、固有性が剥奪された、代替可能なものでなければならない、と(生命は物質に宿るのではなく、あくまでその組み立て方に宿る、と)。三鷹の住宅では、(予算の都合も勿論あるだろうけど)多くのパーツに平然と既製品-規格品が使われていた。

来週の土曜日(5月29日)に地下一階の講堂で馬場駿吉(名古屋ボストン美術館長)×建畠哲(当館長)の対談が午後2時からあります。聴講無料。