吐き気/新しい命が/本が

昨日は調子が良かったのに今日は吐き気がする。
昼飯は食べないで仰向けに寝る。病院で借りた志水辰夫のハードボイルド『深夜ふたたび』を布団の中で読んでいる。身体が元気ない時はハードボイルミステリーに手が伸びます。枕元には「コボレーヌ」という尿瓶を置いて手放せなくなった。本当に助かります。

とみきちさんがブログ記事で単に何の本を手に入れたとか、そんな情報だけではなく「読んだ」内容についてその一冊の本にどんな風にして共振されられ、したかについて、書いて欲しいと溜息ついていたが、確かに新刊はともかく「古本」記事はその傾向が顕著ですねぇ。 http://yomuyomu.tea-nifty.com/zakki/2011/02/post-8429-1.html

大阪版毎日新聞夕刊(2月16日)6面でジュンク堂難波店店長の福島聡氏が書店の魅力「出会い求めさまよえる森」と言うあまりにも真っ当すぎる論考をアップしている。
思わず、佐々木中東浩紀とのズレを想起しました。勿論、福嶋さんの論考は佐々木中に通底して居る。一部引用させて下さい。

それでも、人は書店にやって来る。何を求めて?
それは、偶然というものの魅力、出会いというものの不思議さだと思う。一冊の書物と読者の出会いの頼りなさに、その出会いの場となるこれまた頼リなげな書店空間に、人はむしろ開放性と可能性を見いだす。
逆に、一見開放的なインターネット空間は、ある種の閉鎖性を持つことを避け得ない。書店の「頼りなさゆえの開放性=可能性」に対して、「頼りがいゆえの閉鎖性=必然性」と呼ぶベけである。「賭け」には、必然性ではなく、偶然性こそふさわしい。書店=書物の森への迷い込みは、運命を求めての彷徨とも言える。
インターネット空間でもてはやされる、リンクだのランクだのは、既成の価値観に縛られざるを得ず、今ある世界から決して自由にはなれない。だから、そこには本来、「まったく新しい本」の居場所はない。「まったく新しい本」は、世界を認識する枠組みを、そして世界の在りようさえ解体せんとするものだからだ(「WEB 2・0」礼賛者の発言が意外なほど保守的なのも、そのせいかもしれない)。
無論、書店の現場においても、「まったく新しい本」が新刊として入荷したとき、書店員は悩む。どこを探しても、その本がピタッと収まる棚の場所はない。その時、場としての書店がはらむ偶然性、頼りなさが幸いする。書店員は苦心の末、他の本の並びを変えたりして、何とか「まったく新しい本」を棚に収め、その瞬間、棚の「絵柄」が、ひいては書店という場が、わずかに、だが確実に変容する。

「まったく新しい本」とは情報としてデータバンクを逸脱する【自らが自らの存在とエネルギーを主張しながら生まれてくる書物なのだ。】(福嶋聡)
書物のいのちも「幹細胞」なのだ。新しい生命を宿す。
抗がん剤点滴を継続しているが、「頼りなさゆえの開放性=可能性」に賭けますよ。ビンゴ!