森岡正博/痛みの人

無痛文明論生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想
◆『無痛文明論』(トランスビュー社)に痛々しさを感じた。勿論、読み手をも、引き込む。作者と対峙を余儀なくされる。息苦しい本でもある。誠実な人なのです。始めて講演会で森岡さんにお目にかかったとき、会津白虎隊の凛々しい美少年振りを大人の森岡さんに重ねた。森岡さんは土佐の人なので、当然、坂本竜馬を思い浮かべるが、「月様、半平太」の武市瑞山がまだしも良く似合う。彼は「尾崎豊」にどっぷり、ハマリ、「十七歳の地図」の痛々しさは、尾崎のように自裁を選ばず、尾崎豊を批評することで、「書くこと」で、彼の鬱屈した怒りは「生命学」へと向かう。『無痛文明論』は世界に冠たる思想書だと、森岡正博は大見得を切る。「この本を書き上げるために、ぼくは生まれてきたんだ」と、言い切る。にもかかわらず、本書は永遠に未完であり続け、更新を余儀なくされる生ものの本である。言葉を事物との破綻スレスレの境界線上に捉えて、思想書でありながら、<私小説>的な文体で、自己表出したりする。文学書にあらず、哲学書にあらず、宗教書にあらず、講演会でトランスビュ社の人が「奇書」と表現したが、この大部な“Painless Civilization”は未来の書であるのでしょう。読み継がれて、真価が発揮できる更新を裡に蔵した誇ってもいい一冊です。
◆ぼくは最近、森岡正博のことを考えると、三島由紀夫の影がちらつく。勿論、森岡さん自身の三島由紀夫に言及した一文は寡聞にして知らないが、次の新作がセクシュアルに関するものだと聞き及んでいるものだから、余計、そんな勝手な想像をするのかもしれない。新作が楽しみです。でも、もし、森岡正博が『三島由紀夫論』を書いたら、違った切り口が見えるのではないかと、非常に興味があります。

第七章の最後で、「近代的自我」とはまったく異なった「中心軸通路」という概念を提唱したが、その分析はまだ途中で終わっている。「私」とは、内部が中空になった一本の管のことであるという、この「中心軸通路」の概念によって、私は現代哲学の「主体」概念を変革したい。ミシェル・フーコーは、「従属」によって逆説的に「主体」が生成するという構造を提唱して、現代思想に革命を起こした。私は、フーコーとはまったく違った次元において「主体」を捉えたい。すなわち、「私」の中軸に「穴」が開いていて、私以外のものが流れ込み流れ出る「通路」となっているからこそ、「私」は「主体」として存立し得るのだというアイデアを、私は提唱してみたいのである。