歩行器

古井由吉の『野川』をゆっくり、読んでいます。もったいない、そんな言葉が零れ落ちます。いささか、正気を失うような、滴りです。いくらでも、引用したくなります。

/十五の歳に、ひと月寝たきりの後、立ち上がってと医者に言われて、無造作に立つと、腰がすとんとベッドに落ちたということがあったので、用心して腰をあげると、これも何の事もなく、立てた。その立った様子を医者はしげしげと眺めていたがふっとへ部屋から消えて、まもなく廊下から車輪の音が近づいて車椅子かと思ったら、立ちかけの赤ん坊の使うようなものを大人の背丈に伸ばした歩行器を押して来た。これにつかまれと言う。そして姿勢の定まったところで、歩いて、と声がかかった。/そのまま廊下へ出た。歩くというよりも、棹で岸を突いて舟を出した心地がしたものだ。初めは歩行器を押していたのが、やがて手をかるく掛けるだけになった。そう、それでいい、上々、上々、と後ろから医者の声がした。廊下のはずれまで来るとその声が絶えたので、足を停めてそろそろと振り返ると、姿も見えなかった。それから半時間ほどだったか、広くもない病棟の内のことなので歩いていたばかりでなく、談話室の窓辺に立って表を眺めたりして、ベッドに戻るといまさら息があがった。疲れのあまり夕飯は半分も喰えなかった。/その夜半の寝覚めに、廊下を行く背が見えた。夢ではなかったが、夢よりも夢に感じられた。これまであんなにも、かるがると歩いたことはあるだろうかと怪しんで、あれはようやく自分の内から抜け出した影ではないのか、と寝惚けた頭で考えたものだ。あれが死後だとすれば、ここで寝ているのは生前になるが、生前の自分とは、自分はどこから眺めているのか、と莫迦正直のような混乱を来たしかけた。いささかの新生ではあったのだ。―古井由吉著『野川』―

荒川、神田川石神井川多摩川、鴨川、大川、などの川沿いがひと繋がりに、どこまでも、歩いていたような気がする。川沿いを歩けば、必ずどこかへ辿り着ける、その予感を楽しんでいたのでしょうか。引越しして、今、近くに国道一号線が走っていますが、そこを歩く気になりません。それから、天野川が流れています。カササギ橋がかかっています。このあたりも、散策コースです。桂川宇治川、木津川が合流して淀川となる。三川合流の背割りは春ともなれば、みごとな桜並木になります。淀の競馬場もざわめく。このあたりの治水を管轄しているのは近畿整備局ですか、川は国土交通省か、そこで、発行しているPR誌に拙句が掲載され花の種子をもらいました。

川ひかり 道もひかりて 男山

石清水八幡宮の御山から、見える川、見えない川を思いやったのですが、季語もない(笑)。それより、とかけ座の台風が去りました。
『三川合流地域』の空撮です。

稲妻や盥の底の忘れ水 子規