『文明と荒野』(風の旅人11号より)

言海 (ちくま学芸文庫)新訂 字統呪の思想―神と人との間放送禁止歌 (知恵の森文庫)
『呪の思想』は漢字の身体力、呪力について白川翁が梅原猛を相手に熱く語るのですが、言葉は生もの、生臭いものだと痛く感じました。(bk1拙レビュー収載)
12/27の原田さんの更新ブログ「政治的」は、やっかいな問題に接続している。
『降り積もれば…』です。

葉っぱさんのコメントへの返信に「Political Correctness」について少し書いたところ、今日の朝日新聞に「認知症」についての記事が出ていた(「ところ」で続けているけれど、まったく因果関係はありません)。これからは「痴呆症」を「認知症」と言い換えるという記事。この件については、身近に専門家もいるので、かなり前から聞き知ってはいたけれど、最初に知ったときから「またか」という感想をもっていた。この「またか」の背後には、こんな言い換えで事が解決するわけがない、という判断がある。あえてミソもクソも一緒にして言えば、「侵略」を「進出」と言い換えるような姑息な政治臭を感じる。ここで「政治」というのは、いくつかの意味がある。[……]

それから本論に入るのですが、色々と考えさせられました。『感情の政治学』についてです。
昨日のエントリーで青山光二の『吾妹哀し』でアルツハイマー型痴呆症という言葉を使ったが、アルツハイマー認知症かと、念のため、同居の老母に認知症って知っているかと訊くと、「こどもを認知することか?」って訊かれました。そう言えば、言葉の達人って言えば、「白川静」ですが、青山光二より年上です。男前を超えて仙人・呪者です。今年、白川静は雑誌『風の旅人・9号』に見事な直筆の一文を掲載している。

[……]/私は少年のときによんだ、あの難解なファウストの中で、ただ一ケ所だけ今も記憶に残るところがある。悪戯っぽく悪事をはたらくメフェストフェレスが、もの思うファウストの前に突然姿をみせる。ファウストはあやしんで、「君は何ものかね」と尋ねる。するとメフェストフェレスはいくらか得意気に「常に悪を欲し、却って善を為す、あの力の一部です」と対える。ふしぎに、この対話だけが記憶の底にあるのは、このような矛盾的な、弁証法的な世界の中に私があるのだという、共感に似たものが私のうちにあったのであろう。東洋的にいえば、それは善悪無二の世界である。すべては数億光年の世界と同じく、人間もまた「過程」のうちにある。そしてこの過程のうちに、現実がある。そこが人間の領域であることを、覚る外にはない。

言葉の豊潤さに浸りきる至福を犠牲にしてまで、守るべきものが「パンと安全」で、そのためなら言葉狩りは厭わないのなら、“人間の領域”は奈辺にあるのか…。
ドキュメント映像作家の森達也はオウムを接写して『A』、『A2』で、信者達を生身の人間として切り取っていったが、みんなが触れたがらない問題に果敢に挑む姿勢は森達也著『放送禁止歌』(松岡正剛千夜千冊より)にも窺われる。この松岡正剛レビューもより深く踏み込んでいます。