友はありや

『身捨つるほどの祖国はありや』(パルコエンタテインメント事業局)の寺山修司の肉声をテープで聴いていると、三十年以上昔であるが、随分、遠くへ来たもんだと、少なくとも友という言葉が日常的に使われていたという感慨がある。それを甘っちょろい、気持ち悪いって揶揄するのは簡単であるが、情と心中してもいいではないか、とコケッコッコーと鳴いて見たくなります。

もし、誰かが私に、/「祖国か友情か、どちらかを裏切らなければいけないとしたら、どっちを裏切るか?」/と質問したら、私はためらわずに、/「祖国を裏切る」と答えるだろう。/一国の革命は、百国の友情を犠牲にしてきずかれるものではないのだから。−さかさま世界史ー

問題は、友情がそんなに見つからないっていうことだ。国家はいくらでもある。身捨つる友情であれ、祖国であれ、それを欲しても手に入れるのが困難だということだ。国家は簡単に手に入る。素直であれば、慰めてくれる、いい子にしておれば、守ってくれる。でも、国家は君を友人として遇さないであろう。