恥で年を越してしまいました

トゥルーマン・ショー [DVD]マトリックス レボリューションズ 特別版〈2枚組〉 [DVD]文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い見たくない思想的現実を見る―共同取材
◆ブログの流れが恥についてエントリー(前日)したので、そのまま、書いてしまいます。と言っても旧ブログよりの転載です。
【恥についての問題】(2004年5月20日記)
かって、おしょうさんの『茶室』で『文明の内なる衝突』の大澤真幸テクニカルターム第三者の審級』の前半部分よりは、後半部分の贈与、恥を巡る考察についてカキコしたことがあります。読書会の次回テキストは本書にほぼ、決まるみたいですので、参照として、引用部分を取りあえず、貼り付けました。【A】、【B】、【C】のエピソードをめぐって、大澤は『恥について』考察するのです。大澤真幸著『文明の内なる衝突』の“羞恥について”から引用します。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者をめぐる介助の例です。
【A】

私が出会った女性の患者は、二十年近く前に発病し、すでに眼球以外に随意に動かすことができる身体の部位はなかった。それゆえ、彼女は二十四時間、完全に介助されている。介助者が交替で、常に彼女に付いているのだ。あるとき、彼女を中心にしたパーティが開かれた。このとき私が非常に驚いたのは、彼女を介助してきた歴代の介助者たちが、患者である彼女に対する感謝を次々と口にしたことである。患者が介助者に感謝しているのではない。逆である。介助者は、なぜALSの患者に感謝したのか。この感謝の感情は、まったき受動性のうちにあるALS患者を起点とする、自己触発の循環の中に、介助者たちが積極的・能動的に巻き込まれていたことを、それゆえ、介助者たちが介助に快楽や充実感を覚えていたことを、証するものではないだろうか。/この患者のもとには、入れ替わり立ち替わり、介助のための若いアルバイトがやってくる。若い介助者たちは、何時間かのアルバイトの間に、ずいぶんとこの患者とおしゃべりをするのだという。ときには、恋愛など、人生の中の重大事についても話す。誰もが、彼女の前では雄弁となり、心のうちを打ち明けるのだという。こうした様子を見ていると、この患者の娘さんは、ある寓話を思い出すという。ある村に口のきけない人がおり、なぜかこの人に話を聞いてもらいたくて、人々が列をなしてこの人に会いに来る、という寓話である。このALSの患者は、自らの受動的な身体の現前によって、介助者たちの「語ること」の能動性を触発しているのだ。

【B】アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

SS隊員は、体調のせいで行軍を遅らせる可能性のある者を銃殺したという。銃殺者は、ときに、まったく行き当たりばったり式に選り分けられた。あるとき、若いイタリア人が選ばれた。そのイタリア人の若者、大学生だというその若者は、選ばれたときに、ひどく赤面した、とアンテルは書いている。そして、その顔の赤さは今でもアンテルの目に焼き付いている、と。確実なことは、この若者は、生き延びることを恥じているわけではない、ということだ。間違いなく、彼は自分が死ななければならないことに関連して、恥じているー『アウシュヴィッツの残りもの』(月曜社、2001、pp137-38)よりー

【C】『医者井戸を掘る』の中村哲は、バーミヤンで破壊された仏像を見たあと、

「本当は誰が私を壊すのか」。巌の沈黙を以て仏陀はそう語っていた。人の愚かさが乱舞する政治的確執に利用される中で、それは強い印象で心に迫るものがあった。仏性が万人に宿るものならば、それは誰も壊せぬものである。それは、よし無数の土くれに帰ろうとも、人の愚かさを一身に背負って逝こうとする荘厳な意思の体現である。

中村哲の医療活動を駆動しているのは、論理的に純化してしまえば、これと同質の能動的=受動的循環を媒体にした、他者の関係ではないだろうか。中村は、他者としてのアフガン人との間で、述べてきたような、二重の能動性=受動性が絡み合うような関係を構築してきたのではないか。彼は、他者(アフガン人)の自己触発の関係の中に、巻き込まれているのである。/中村がアフガニスタンで覚えた恥の感覚は、彼が、こうした循環の中に、積極的に巻き込まれうる態勢にあったということを示している。あるいはまた、収容所のユダヤ人のような「見放されていた」側が覚える強い羞恥心は、彼らがこの能動的・受動的な循環の起点たりうるということを含意している。これが、ここでの仮説である。

◆ぼく自身、この羞恥心がずーと、頭の中にあるのです。言葉で説明しきれませんが、又、説明してしまうと、手元から逃がしてしまう「語り得ぬもの」かもしれません。ただ、この羞恥心は大切にしなければならない、リスペクトすべきだという確信はあるのです。

いずみさんからの示唆で、“金子勝・大澤真幸共著『見たくない思想的現実を見る』”の第二章『高齢者医療ー老いの現場でー』(44頁〜81頁)は【A】を具体的、詳細に大澤さんは記述しています。(「老人という<他者>」ー62頁から)
テクニカル・タームとして二分法が大嫌いな【第三者の審級】の大澤真幸さんらしい、視点で、何でも弁証法的な運動で捉える彼の主旋律はここでも、生かされている。【A】で紹介した女性患者は高井綾子さんで、−綾子さんの、強い意志のこもった鋭いまなざしが、周囲の人々のうちに、自らについて語ることの能動性を引き出し、またそれを享受させているのである。−(79頁)

繰り返そう。人が何か価値のあることを為すということが、自他の間の能動性/受動性の循環の中にこそ基礎を有するのだとすれば、老人の生こそが、われわれの生の価値を与えているのである。−(81頁)

筋肉がほとんど無力化したALS患者の綾子さんの視線は強靭なものである。

眼球は、随時に動く。そこで五十音順にひらがなを並べた透明な板を使用する。綾子さんは、言いたい文を、文字板のかなを目で追いながら構成する。介助者は、その目線を読み取るのである。だが、どうやったら、それほど完全に目線を読み取ることができるのか。ここで、文字板が透明であることが意味をもつ。綾子さんは、介助者がかざす文字板の特定の文字を見ている。介助者は、透明の板を間にはさんで、自分の目と綾子さんの目が完全に正対し、両者の「視線」が一直線になるようにする。このとき、この直線上にある文字こそが、まさに綾子さんの目が読んでいる文字なのである。この瞬間、綾子さんが見ているその当の文字を、介助者も見ているー見せられている。−(68頁)

  • 参照: =『森岡正博書評』= #付記(4/30記):読書会のテキスト『文明の内なる衝突』を去年、武田徹さんの既刊限定「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」(2003年の夏)のBBSのやりとりの中で、結構、ぼくは本書を取り上げている。以下もそのひとつです。○○さんのカキコで産経新聞朝日新聞にならないし、深層部分は変化がないとの発言に対して、いや、深層部分では見えないけれど、通底しているのではないかという危惧を持ってしかるべきではないか?そのささやかな異論として大澤さんの弁証法的な三幅対を持ち出しているのです。以下に貼り付けます。>は○○さんです。
  • ◆>そのへんの現状認識が一致せずに話を始めるとかみ合いにくいのでは、と思いました。どうもマスジャーナリズムのほうは変わっていないような気もしますし、それはいわばツールの問題に過ぎず、深層部分に変化がないように思うのです。産経新聞朝日新聞のようにはならないし、主義主張に与える影響はまだ表層にはっきり現れてきていません。
  • 葉っぱ64:ツールの問題で、深層部分に変化がないなら、悩む必要はないのですが、武田さんを始め他の方はどうか分かりませんが、極論すれば、サンケイもアサヒもフェーズの顔面が違うのであって、深層で通底しているのではないかという認識があるのです。別にそれはツールの変革だけによってもたらされたわけでなく、そもそもの、ラジカルな部分がツールの技術進歩によって、見やすくなったということではないでしょうか?丁度、昨日、手に入れたばかりですが、大沢真幸の『文明の内なる衝突』で、今日、倫理に関する社会哲学は、相互に反目しあう三つの陣営にほぼ整理する出来るとして、

1】コミュニタリアン、宗教原理主義者、ナショナリスト、伝統
2】普遍的形式主義者、虚妄の戦後民主主義者、モダン
3】多文化主義、多様性、相対主義ポストモダン

分類した上で、弁証法的な三幅対を構成しており、三つの立場は相互に他を批判してあうような敵対関係にあるのだが、しかし、緊密に結びついているとの認識があるわけです。オウム事件、9/11テロ以降、それが、表層に漏れだして、潜在癌かもしれないが、ITのような先端技術によって、「意味らしい発見」をしているのですよ、そこまで、精密検査をする必要があるのかと、疑問がありますが、医者であれ、人文科学者であれ、身体を時代を読むわけです。小林よしのりの反米愛国とか、シビィック・ナショナリズムとか、3】のポストモダン主義者達がより過激な民族主義者に回帰する事情とか、ニューヨークテロはかような幸福な隠蔽を露出させたわけでしょう。『マトリックス』で管理社会への抵抗運動のリーダーがキアヌ・リーブスに言ったセリフ「現実界の砂漠にようこそ!」は見たくないけど、無理矢理、外部を見たわけですよ、勿論、文学者は想像力で外部が廃墟であろうと、そこから、発信するし、ジャーナリストは現場を足場にして、何とか接木の想像力でやり果せようとする。(このあたりの苦悩は武田さんがベトナム開高健に触れて記述している。) 

私(葉っぱ64)は入院生活で介護の監視の下に、本音を言えば、安逸な日々を過ごし、今も患者として、経過観察の暖かい目に守られて、病院通いしているわけです。フランスのテレビ番組『ロフト・ストーリー』は高視聴率だったらしいですね、アメリカ映画『トゥルーマン・ショー』の現実版で、沢山の公募の中から選ばれた十一人の若い男女が周囲から隔離された完全設備のロフトに閉じこめられ、すべての部屋にカメラを設置して、彼らの行動は24時間撮影される。テレビ視聴者はこれら参加者の私生活をただ、覗きみるだけである。大沢氏が注目しているのは、高視聴率でない。3800人の応募が第一回にあったということである。誰かによって仕組まれた虚構の世界の中におかれ、常時、監視されている方が安心であり、快適ですらある。その逸楽は身にしみてわかるのです。(自嘲)

前後のやりとりがあるので、ちょいと、分かりにくいかもしれません。ぼくが危惧しているのは、1940年体制は底流において生きており、「世間」と言う名で、アサヒがサンケイになったり、サンケイがアサヒになったり、そんな三幅対の弁証的な動き、「転向」といった思想的なものというより、「変換」と言った方がより事情にかなっている。「転向」とはOSを変えることだと思う。そうでなくて、OSは何ら変っていないのではないか?と言う事です。